異形の群れ
人間は、何をもって人間なのだろう。
肉体か。記憶か。それとも、自分が自分であると信じる意志か。
その答えを、久遠玲司はまだ知らない。
ただ一つ、分かっていることがあった。
人間の形をしているからといって、それが人間とは限らない。そして、人間の形を失ったからといって、そこに何も残っていないとは限らない。
◇
午後七時二十四分。天城市北部研究区画、地下搬入路。
最初の悲鳴が上がったのは、都市防衛局の先遣調査班が後退を開始した直後だった。
「第一班、後退! 繰り返す、後退しろ!」
通信機から怒号が響く。
地下搬入路の入口には、青い魔術障壁が三重に展開されていた。その向こうの暗闇で、何かが動いている。
がり、がり。
硬いものを削るような音。続いて鈍い衝撃が走り、障壁の表面に黒い亀裂が生じた。
「……嘘だろ」
調査員が呟く。
異形は障壁を叩いているのではない。同じ場所へ何度も腕を突き刺していた。まるで、壁の向こうにいる人間の位置が分かっているかのように。
次の瞬間、青い光が砕け散った。
「接敵!」
暗闇から黒い影が飛び出す。
人間に似た頭部。異常に長い両腕。胸から腹部にかけて、皮膚の下を黒い術式が脈動している。
「撃て!」
銃声が連続した。
魔術弾が異形の胸を貫き、腕を千切り飛ばす。だが、異形は止まらなかった。
破損した肩口から黒い繊維が伸び、骨と筋肉を形成する。数秒も経たないうちに、失われた腕が再生した。
「再生型だ! 通常弾じゃ止まらない!」
さらに二体、三体と異形が現れる。
そのうちの一体が首を傾けた直後、姿を消した。
「……っ!?」
調査員が振り返る。
何もない空間から黒い腕が伸びた。防御が間に合わない。
その瞬間、赤い光が暗闇を切り裂いた。
轟音とともに、異形が横方向へ吹き飛ぶ。
「全員、下がってください!」
伊佐波朔夜が、調査員と異形の間に立っていた。
右腕には赤い術式光。左手には魔術デバイス。足元には青い解析陣が展開されている。
「久遠!」
背後から榊原の声が響く。
「伊佐波とともに第二防衛線まで後退しろ! 民間人の退避経路を確保する!」
「……はい!」
玲司は頷いた。しかし、その視線は地下搬入路の奥へ向けられていた。
暗闇の中に、まだ何かがいる。
『玲司。高密度の黒魔術、深淵接触術式反応を複数検出。現在確認できる個体数は九。地下深部にも未識別反応が存在します』
「……九体」
『増加する可能性があります』
玲司がデバイスを握り直すと、朔夜が隣に立った。
「玲司。俺が前に出る。お前は後ろから援護してくれ」
「……分かった」
「無理に俺に合わせなくていい。お前にしか見えないものがあるなら、それを教えてくれ」
玲司は少しだけ目を見開き、頷いた。
「……うん」
◇
最初に動いたのは、再生型だった。
長い両腕を地面へ突き立て、四足歩行の獣のように加速する。
「速い……!」
玲司が息を呑む。
しかし、朔夜は動かなかった。
足元に青い光が走る。敵の加速、関節の角度、着地点、術式反応。そのすべてを一瞬で解析する。
「……そこだ」
朔夜が右足を踏み込んだ。
赤魔術、生命錬成術式。
踏み込みの瞬間だけ右脚の筋出力を上げ、接触直前に腰と肩関節を補強する。そして、拳が届く瞬間、衝撃を一点へ集中させた。
轟音。
異形の頭部が歪み、壁へ激突する。
『対象、再生反応を継続』
「分かってる」
朔夜の左手に緑色の光が集まった。
緑魔術、原生循環術式。
炎が異形を包み込む。しかし、黒い術式は激しく脈動し、焼かれながらも再生を続けた。
「……再生が速すぎる」
「なら、再生する場所をなくせばいい」
朔夜は炎を胸部へ集中させた。
その瞬間、玲司の視界に違和感が走る。
胸の奥。黒い術式の中心だけが、周囲とは異なる周期で明滅していた。
「……朔夜! 胸の中心! 少し右!」
朔夜は即座に動いた。
青魔術による解析。緑魔術による拘束。そして赤魔術による一撃。
拳が異形の胸部を貫き、黒い光が砕け散る。
異形は一度大きく痙攣し、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
『対象の術式反応、消失』
「……倒した」
「ああ」
だが、安心する暇はなかった。
暗闇の奥から、さらに三体が現れた。
◇
第二の個体は、見えている場所にいなかった。
玲司が放った魔術弾は、照準が合っていたにもかかわらず、異形の身体をすり抜けた。
『警告。対象の観測位置と実位置に差異を検出』
「……また、これか」
以前、黒い魔術師と戦ったときと同じ現象だった。
見えている敵が、そこにいない。認識そのものがずらされている。
玲司が左へ跳ぶと、何もない空間から黒い腕が伸び、床を砕いた。
「玲司! 目で追うな!」
朔夜の左手から緑色の炎が扇状に広がった。
敵を焼くためではない。周囲の空気を加熱し、熱の流れを変えるための炎だった。
異形の姿が揺らぐ。その周囲だけ、炎の流れが不自然に途切れていた。
「……そこか」
朔夜が踏み込む。
赤い光をまとった拳が、何もない空間へ突き出された。
鈍い衝撃音。透明だった空間に黒い亀裂が走り、異形が姿を現した。
「……すごい」
玲司は思わず呟いた。
朔夜は青魔術、論理構築術式で敵の位置を直接読み取れなかった。だから、緑魔術、原生循環術式で環境を変化させ、敵が周囲へ与える影響から実体を探り当てたのだ。
複数の魔術を自在に扱う技術。それは朔夜が長年積み重ねてきた努力の成果だった。
「玲司! 右の通路を頼む!」
「……分かった!」
玲司が銃口を向けた先には、第三の個体がいた。
だが、その異形は明らかに違っていた。
◇
第三の個体は、攻撃する瞬間だけ形を変えた。
最初は人間に近い姿だった。両腕も両脚も、関節の位置さえ正常に見える。
『対象、接近中』
「……分かってる」
異形が踏み込む。
右足に重心が移り、肩が沈む。
右腕による突進攻撃。
玲司はそう判断した。
だが、次の瞬間。
異形の右腕が肘から逆方向へ折れ曲がった。
「……え?」
関節が増え、腕が伸びる。ありえない角度から攻撃が迫った。
『回避!』
玲司は身体を捻った。
黒い腕が頬の横を通過し、衝撃波が皮膚を裂く。
「……っ!」
異形は追撃する。左腕が途中で二つに分かれ、一方が頭部を、もう一方が腹部を狙った。
防御が間に合わない。
その瞬間、玲司の視界が変わった。
知らない戦場。崩れた建物。銃声。
そこには、異常な生物と戦う別世界の自分がいた。
その玲司は、敵の形を信用していなかった。腕の数も関節の位置も変化する相手だからこそ、動き始める直前の重心だけを見ていた。
――そこだ。
玲司は無意識に踏み込んだ。
攻撃を避けるのではない。完成する前に敵の懐へ入り、銃口を胸部へ押し当てる。
引き金を引いた。
至近距離から撃ち込まれた魔術弾が、異形の胸を弾けさせた。
だが、玲司の右肩に激痛が走る。
「……ぐっ!」
『警告。右肩関節に過負荷。継続戦闘は推奨できません』
別世界の技術は、現在の玲司の身体能力を超えていた。
「……まだ、終わってない」
異形の胸部が黒い術式によって修復されていく。
「……再生も、するのか」
『複合特性個体の可能性があります』
玲司が銃口を上げた瞬間、背後から別の異形が迫った。
振り返るが、間に合わない。
そのとき、緑色の炎が視界を横切った。
「玲司! 下がれ!」
朔夜だった。
赤、青、緑。三つの魔術が連続して発動する。
異形の腕を弾き、退路を塞ぎ、術式核を解析する。
そして一瞬の隙を突き、朔夜の拳が敵の胸部を貫いた。
「……ありがとう」
「礼は後だ」
朔夜は振り返らなかった。
「まだ、来る」
◇
午後七時三十一分。
地下搬入路の奥で、黒い影が増え続けていた。
『警告。未識別個体数、増加中。現在確認できる個体数は二十一』
「……二十一?」
朔夜が舌打ちした。
「……多すぎる」
額には汗が浮かんでいた。
赤魔術による身体強化。緑魔術による広範囲制圧。青魔術による解析。
三系統を切り替え続ける負荷に加え、カートリッジの消費と身体への反動が蓄積している。
それでも、朔夜は立っていた。
「玲司。ここからは俺が前に出る」
「……でも」
「お前は後ろから援護してくれ。俺が見落とした敵を、お前が止めてくれ」
朔夜は静かに続けた。
「それで十分だ」
玲司は頷き、銃口を暗闇へ向けた。
「……分かった」
◇
玲司は目を閉じた。
頭の奥には、知らない記憶、技術、人生が蠢いている。
以前は勝手に流れ込んできた。
だが、今は違う。
自分で選ぶ。必要な経験を、必要な瞬間に。
最初に選んだのは、狙撃手だった。
遠距離から敵を観測し、わずかな動きの違いを読み取る技術。
視界が変わる。
敵の位置、移動速度、攻撃の間隔。それらが線として見え始めた。
『未登録の運動制御パターンを検出。技術読込反応を確認』
玲司は引き金を引いた。
魔術弾が異形の脚部を貫き、動きを止める。
「……次!」
朔夜が踏み込み、赤い拳で異形を打ち倒した。
玲司は次の経験を選ぶ。
今度は、兵士。
狭い通路、複数の敵、限られた弾薬。味方の位置を考慮しながら射線を作る技術。
二発の魔術弾を撃つ。
一発目で敵の進路を塞ぎ、二発目で朔夜の攻撃経路を作る。
朔夜は即座に意図を理解した。
緑魔術で退路を封じ、青魔術で術式核を特定する。
赤魔術による踏み込み。
衝撃。
異形が崩れ落ちた。
玲司はさらに、格闘家の経験を選んだ。
重心移動、関節の使い方、敵の懐へ入る技術。
迫る異形の腕を受け流し、身体を捻る。胸部へ銃口を押し当て、発砲した。
黒い術式が砕ける。
だが、その瞬間。
「……っ!」
頭に激痛が走った。
狙撃手。兵士。格闘家。
三つの人生。三つの記憶。三つの身体感覚。
それらが、頭の中で重なり始める。
『警告。記憶情報の混線を確認』
「……まだ、大丈夫」
『継続使用は推奨できません』
「……分かってる」
玲司は銃口を上げた。
しかし、その瞬間、視界が暗転した。
◇
そこは、知らない戦場だった。
燃える建物。崩れた道路。空を覆う黒い煙。
玲司は銃を握っていた。
だが、今の玲司ではない。
もっと大きな身体。傷だらけの腕。血に濡れた制服。
そして、目の前には朔夜がいた。
赤い光。緑色の炎。青い術式。
三つの魔術をまとい、玲司へ向かってくる。
――お前は、ここにいちゃいけない。
その声に、玲司は息を呑んだ。
――ここで死んでもらう。
朔夜が踏み込む。
玲司は銃口を向けた。
引き金。
銃声。
そして、朔夜が倒れた。
血が地面へ広がる。
自分が撃った。
自分が、朔夜を殺した。
その記憶は、あまりにも鮮明だった。
――違う。
玲司は思った。
――これは、僕じゃない。
だが、血の匂いも、銃の反動も、朔夜の倒れる音も消えなかった。
◇
午後七時三十五分。地下搬入路。
視界が戻る。
目の前では、朔夜が異形と戦っていた。
赤い光。緑色の炎。青い術式。
その姿が、別世界の朔夜と重なる。
――敵だ。
頭の奥で、誰かが囁いた。
――あいつを、撃て。
玲司の右腕が動く。
銃口が上がり、朔夜の背中へ照準が合った。
『警告。対象識別に異常。照準補助を停止します』
ノアの声に、玲司は目を見開いた。
銃口が揺れる。
違う。
目の前にいるのは敵ではない。
朔夜だ。
幼い頃から一緒にいた親友。誰よりも努力し、自分が憧れてきた大切な友人。
「……っ!」
玲司は慌てて銃口を下げた。
手が震えている。
「……僕は、何を……」
「玲司?」
朔夜が振り返った。
玲司は顔を上げられなかった。
自分は今、親友を撃とうとした。
別世界で朔夜を殺した自分の記憶が、現在の自分を動かそうとしたのだ。
「……ごめん」
「……何が?」
玲司は答えられなかった。
そのとき、背後から異形が迫った。
右へ避ける。左へ踏み込む。銃を撃つ。拳を構える。
異なる人生の技術が、同時に身体へ命令を出す。
その結果、玲司は一歩も動けなかった。
黒い腕が迫る。
瞬間、赤い光が視界を横切った。
朔夜が異形の腕を弾き、玲司の前へ立つ。
「……玲司。もういい」
「……でも」
「ここからは俺がやる。お前は下がれ」
朔夜は振り返らない。
「今のお前は、戦える状態じゃない」
玲司は何も言えなかった。
「……俺を信じろ」
その言葉が胸に刺さる。
今の玲司には、自分自身さえ信じられなかった。
だが、朔夜は迷わなかった。
「俺は、お前を信じてる。だから、お前も俺を信じろ」
穏やかで、強くて、少しだけ不器用な声。
いつもの朔夜だった。
玲司はゆっくりと頷いた。
「……うん」
そして、後退した。
◇
朔夜は一人で前へ出た。
再生型。認識干渉型。構造変化型。そして、それらの特性を複数備えた個体。
まだ十体以上が残っている。
普通なら絶望的な状況だった。
だが、朔夜は静かに笑った。
「……さて。やるか」
赤い光。緑色の炎。青い術式。
三つの魔術が同時に輝いた。
最初の異形が突進する。
朔夜は青魔術で軌道を読み、右へ半歩。赤魔術で身体を強化し、拳を側頭部へ叩き込む。
吹き飛んだ異形の着地点へ緑魔術の炎を展開し、再生を阻害する。
次は認識干渉型。
朔夜は視覚情報を捨てた。
炎で空気の流れを変え、熱の分布から実体を見つけ出す。
踏み込み。
赤い拳が、見えない敵を打ち砕いた。
続いて構造変化型。
伸びる腕。増える関節。変化する攻撃軌道。
朔夜は後退しなかった。
青魔術で変化直前の術式反応を読み、緑魔術で敵の足元へ炎を発生させる。
重心が崩れた瞬間、赤魔術で踏み込む。
拳が術式核を貫いた。
玲司は、その光景を見つめていた。
強い。
けれど、それだけではない。
朔夜は迷わない。
敵の特性を見極め、必要な魔術を、必要な瞬間に、必要なだけ使う。
それは師匠から教わったことと同じだった。
だが、朔夜はその強さを誰かから借りたわけではない。
何年もかけ、何千回も失敗し、自分の身体へ刻み込んできた技術だった。
玲司は拳を握った。
強い自分を選ぶだけでは足りない。
その強さを、今の自分のものにしなければならない。
◇
午後七時四十二分。
最後の異形が崩れ落ちた。
朔夜は荒い息を吐く。右腕が震え、左脚にも負荷が蓄積していた。カートリッジの残量もわずかだった。
それでも、立っていた。
『周辺の高危険度個体反応、消失。ただし、地下深部には未識別反応が残存しています』
「……分かってる」
朔夜は振り返った。
玲司は壁際に座り込んでいた。顔色が悪く、呼吸は浅い。手もまだ震えている。
「……玲司。大丈夫か?」
玲司は頷こうとした。
だが、できなかった。
「……僕、さっき……」
朔夜は黙って待った。
「……朔夜を、撃とうとした」
沈黙が落ちた。
遠くで調査員たちの声が響いている。
「……そうか」
朔夜は静かに答えた。
「……怒らないの?」
「怒る理由がない」
「……でも」
「お前は、撃たなかった。それに、今のお前が普通じゃないことくらい、分かってる」
玲司は俯いた。
「……怖かった。自分が、何をするのか分からなくて」
朔夜は黙って聞いていた。
「……別の世界の記憶が、勝手に入ってくる。その世界の僕は、朔夜を殺してた」
朔夜の表情がわずかに変わる。
「……それが、今の僕の記憶みたいに感じた」
しばらくの沈黙。
やがて、朔夜が口を開いた。
「……玲司。俺は、ここにいる」
玲司は顔を上げた。
「お前も、ここにいる」
単純な言葉だった。
けれど、玲司の胸に深く響いた。
「別の世界で何があったかは知らない。でも、今の俺たちは、まだ何も終わってない」
「……うん」
朔夜は小さく笑った。
「だから、勝手に終わらせるなよ」
玲司はゆっくりと頷いた。
「……うん」
◇
午後八時十分。天城市北部研究区画。
都市防衛局の増援部隊が到着し、地下搬入路の封鎖が完了した。
玲司と朔夜は医療班の検査を受けていた。
玲司には強い神経疲労と記憶混線の兆候。朔夜には筋疲労と軽度の術式過負荷。
いずれも直ちに生命を脅かす状態ではなかったが、玲司には継続的な観察が必要とされた。
その頃、地下研究施設の奥では、調査員たちが一台の端末を回収していた。
保存されていたのは、膨大な観測データ。
人工供物の異形化。人格干渉。記憶転写。存在状態の変化。
そして、ある一人の少年に関する詳細な記録。
――観測対象:久遠玲司。
――根源魔術:愚者の選択。
――発現段階:技術読込。
――記憶混線率:上昇。
――自己同一性維持率:低下。
――次段階への移行条件:未達成。
「……何だ、これ」
調査員は目を見開いた。
その名前には見覚えがある。
今回、観測支援に参加し、異形の人工供物を撃破した学院生だ。
さらに画面を操作すると、少年の戦闘記録が表示された。
最初の襲撃。学院での実技演習。人工供物との戦闘。黒い魔術師との遭遇。
そして、今日の戦闘。
すべてが記録されていた。
「……報告します」
調査員は急いで上官へ連絡した。
「この施設、人工供物の研究だけじゃありません」
声が低くなる。
「……最初から、この少年を観測していた可能性があります」
◇
同時刻。天城市内、某所。
薄暗い部屋の壁一面に、複数の画面が並んでいた。
その中央に、黒い外套をまとった魔術師が立っている。
画面には地下研究施設の崩壊状況と、久遠玲司の戦闘記録が表示されていた。
魔術師は静かに笑った。
「……順調だ」
背後から声が響く。
「何が順調なんだ?」
魔術師は振り返らなかった。
「……彼が、次の段階へ進み始めています」
背後の男は黙っていた。
「ただし、記憶混線が予想以上に早い。このままでは、彼は自分自身を失うかもしれません」
沈黙。
やがて、男が低く呟いた。
「……そうか」
そして、静かに続けた。
「……それでも、進ませる」
「……よろしいのですか?」
男は答えなかった。
ただ、画面に映る玲司を見つめていた。
その目には深い疲労と、何かを何度も失ってきたような悲しみが宿っていた。
「……今度こそ」
男は小さく呟いた。
「……間に合わせる」
魔術師は何も言わず、静かに頭を下げた。
画面の中では、玲司が医療班のベッドに座っていた。その隣には朔夜がいる。
二人は何かを話していた。
男はその光景を見つめ、小さく目を閉じた。
――まだ、足りない。
――もっと、強くならなければ。
――そうでなければ。
――また、彼女を失う。
その言葉は、誰にも届かなかった。




