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百回殺される訓練

最初の一回は、三秒で終わった。

 久遠玲司は、何が起きたのか理解できなかった。

 視界が反転し、背中に衝撃が走る。肺から空気が押し出された。

「……か、はっ」

 天井が見えた。古い照明と錆びついた配管。その向こうに、黒い外套の男が立っている。

「一回目」

「……え?」

「死んだぞ、お前」

「……まだ、生きてますけど」

「実戦なら死んでいる。頸動脈を切られていた」

 玲司は恐る恐る首へ手を当てた。傷はない。ただ、冷たい指先の感触だけが残っている。

『接触時に微弱な青魔術、論理構築術式(ロゴス)反応を検出。致命傷判定のみを再現する模擬戦闘術式と推定されます』

「……つまり?」

『実際に頸動脈を切断されたわけではありません。ただし、回避不能でした』

「……そこまで言わなくても」

 午後六時四分。旧中央演習棟。

 昨日、玲司が謎の男と出会った場所だった。

 男は名前も素性も明かしていない。ただ、玲司の根源魔術に詳しく、その使い方を教えると約束していた。

「立て」

「……はい」

 玲司は身体を起こした。

 左肩には鈍い痛みがあり、右肩も完全には回復していない。医療棟からは激しい運動を控えるよう指示されていた。

 男は訓練前に関節の可動域や筋肉の損傷、神経反応を確認し、ノアの記録も照合した。

 実際の打撃は最小限。致命傷判定は模擬術式で再現し、負荷が一定値を超えれば中断する。

 それでも、開始三秒で倒された。

「もう一度だ。今度は、好きな経験を使え」

「……分かりました」

 玲司はデバイスを構えた。

『身体状態を監視します。疼痛が増悪した場合は中断してください』

「……うん」

 男は両手をポケットに入れたまま立っている。

 隙がないのではない。玲司には、どこが隙なのか分からなかった。

「始めるぞ」

 玲司は意識を沈めた。

 知らない記憶が眠る場所へ。

 そして、最初の経験を選んだ。

     ◇

 雨に濡れた石畳。狭い路地。

 短剣を持つ男と、素手の男。

 素手の男が相手の手首を払い、懐へ入り、肘を折る。

 何千回も繰り返された技術が流れ込む。

 重心。踏み込みの角度。肩の動きに生じる隙。

 《技術読込(スキルロード)》。

 玲司は目を開いた。

「……行きます」

 右足を踏み込み、男の懐へ入る。

 相手の肩が動いた。

 右の拳が来る。

 そう判断し、左へ半歩移動した。

 記憶の中では何度も成功した動きだった。

 しかし、拳は来なかった。

「……え?」

 男の左足が動き、玲司の重心が崩れる。

 手首へ軽く触れられた瞬間、身体が回転した。

 床へ倒れる寸前、喉元に指先が触れる。

『致命傷判定』

「二回目」

「……なんで。今の、避けられたはずなのに」

「何を避けようとした?」

「……右の拳です」

「俺は右の拳を出したか?」

「……いいえ」

「なら、なぜ来ると思った?」

 玲司は答えられなかった。

 記憶の中では、あの構えから右の拳が繰り出されていた。

「……経験の中では、そうだったんです」

「なら、お前が戦っていたのは俺じゃない」

「……え?」

「記憶の中の敵と戦っていた。目の前の俺を見ていなかった」

 玲司は唇を噛んだ。

「経験は答えじゃない。過去に誰かが出した答えの記録だ」

 男は静かに続けた。

「状況が変われば、答えも変わる」

     ◇

 三回目。

 玲司は相手の足元を警戒した。男が踏み込むと予測して後退する。

 しかし、男は踏み込まず、下がった玲司へ距離を詰めた。

「三回目」

 四回目。

 玲司が焦れて攻撃した瞬間、手首を取られた。

「四回目」

 五回目。

 相手の動きを待っていると、足元に青い模擬拘束術式が展開された。

「五回目」

 六回目。七回目。八回目。

 玲司は何度も倒された。

 そして、十回目。

「……っ、はぁ……」

 膝へ手をつき、荒い呼吸を繰り返す。

 身体の損傷は少ない。だが、知らない動きを再現するたび、神経が軋むようだった。

『運動負荷が設定上限へ接近しています』

「……あと、少し」

『継続は推奨しません』

「十回目」

 男は息一つ乱していなかった。

「……まだ、十回。一回も当たってない」

「当然だ。お前は、まだ一度も俺を倒そうとしていない」

「……どういう意味ですか」

「強い技術を使おうとしているだけだ。その技術で何をするのか、決めていない」

 格闘家の経験を読んだから殴る。相手が近づいたから投げる。

「そんなものは選択じゃない」

 玲司は俯いた。

 どうすれば勝てるのか。その答えを別世界の自分に求めていた。

 けれど、何をすれば勝てるのか、自分では考えていなかった。

「休憩だ。十分間、能力の使用も禁止する」

「……はい」

 玲司は壁際へ腰を下ろした。

『神経負荷の蓄積を確認。なお、十回の敗北により自己評価が低下している可能性があります』

「……それは、元から低いから」

『改善の余地が大きいという意味では、好条件です』

「……ノア。励ましてる?」

『事実を述べています』

 玲司は小さく笑った。

 別世界の格闘家は、何年もかけて技術を磨いたのだろう。

 何度も失敗し、怪我をし、それでも訓練を続けた。

 その結果を、自分は一瞬で借りている。

 けれど、今の自分には技術を支える身体も、経験を積んだ時間もない。

 朔夜の言葉が浮かんだ。

 ――技術を知ってることと、使えることは違う。

「……師匠」

「何だ」

「……次は、別の経験を使ってもいいですか。射撃の経験を」

 男はわずかに口元を緩めた。

「好きにしろ」

     ◇

 十一回目。

 玲司は狙撃手の経験を選んだ。

 崩れた高層建築。遠くの砲声。冷たい銃床。

 風向き。湿度。距離。呼吸。心拍。

 照準に必要な情報が流れ込む。

 玲司は訓練用カートリッジを装填した。

『模擬射撃術式、起動』

 距離は十五メートル。遮蔽物はない。

 男の重心が右へ移動した。

 次は左へ動く。

 玲司は引き金を引いた。

 青白い模擬弾が放たれる。

 だが、男の姿が消えた。

「……っ!?」

 違う。ただ一歩動き、射線から外れたのだ。

 玲司は次弾を放つ。

 男が腕を上げると、床から青い障壁が立ち上がった。

 模擬弾が弾かれる。

 次の瞬間、男は玲司の背後にいた。

 肩へ手が置かれる。

「十一回目」

「……そんな」

「狙撃手の経験か。悪くない。照準は正確だった」

 玲司は顔を上げた。

「だが、狙撃手の戦場をそのまま持ち込んだ」

「……どういうことですか」

「狙撃手は射線だけで戦わない。遮蔽物、地形、味方の位置、退路。すべてを使う」

 男は演習場を見渡した。

「ここには壁も柱も術式障壁もある。なのに、お前は銃口の先しか見ていなかった」

 玲司は黙った。

「借りた狙撃手は優秀だったんだろう。だが、その理由をお前は理解していない」

 確かに、玲司は正確に撃っただけだった。

 狙撃手として戦ったわけではない。

     ◇

 二十回目。

 玲司は柱の陰から撃ち、射線を変え、移動先を予測した。

 だが、男は青魔術、論理構築術式(ロゴス)で弾丸を遮り、緑魔術、原生循環術式(アニマ)の炎で視界を奪い、赤魔術、生命錬成術式(アルス・カルニス)による身体強化で接近した。

 すべて回避された。

「……無理だ。全然、当たらない」

「なぜだ?」

「……師匠が、強いからです」

「違う」

 男は首を振った。

「俺が距離を取った理由も、障壁を作った理由も、お前は考えていなかった」

 玲司は答えられない。

「お前は、俺の行動に反応しているだけだ」

「……じゃあ、どうすればいいんですか」

「考えろ。俺が何をしたいのか。何を嫌がり、何を守ろうとしているのか」

 そんなこと、分かるはずがない。

 目の前の男は圧倒的に強い。何をしても先回りされる。

 ならば、もっと強い自分を選べばいい。

「……まだ、あります」

 玲司はデバイスを握った。

「……僕には、もっと強い自分がいるはずなんです」

 男は静かに見つめた。

「なら、探してみろ」

     ◇

 二十一回目。

 玲司は兵士の経験を選んだ。

 荒廃した都市。銃声と爆発。無線から響く知らない言語。

 敵の位置。遮蔽物。仲間の移動経路。

 戦場全体を見て、生き残るための判断。

 今度は単純な格闘でも射撃でもない。

 玲司はすぐには撃たず、演習場の柱や壁、出入口と退路を確認した。

 柱の陰から模擬弾を二発。

 男は障壁で防いだ。

 玲司は移動して射線を変える。

 男が再び障壁を展開した瞬間、玲司は床へ撃った。

 光が男の足元へ散る。

 視線が下がった隙に、玲司は距離を詰めた。

 今度こそ。

 そう思った瞬間、男の足元に赤い光が走る。

「……っ!?」

 赤魔術による身体強化。

 踏み込みの衝撃を床へ逃がし、玲司の重心を崩した。

 胸元へ手が伸びる。

『致命傷判定』

「二十一回目」

 玲司は膝をついた。

「今のは、少しよかった。少なくとも、射線だけを見ていなかった」

「……でも、負けました」

「お前が選んだ兵士は戦場の使い方を知っていた。だが、その兵士が知らない魔術を俺は使った」

 玲司は唇を噛んだ。

「……経験が、足りなかったんですね」

「違う」

「……また、違うんですか」

「ああ。足りなかったのは、お前自身の判断だ」

     ◇

 三十回目。

 玲司は格闘家と兵士の経験を切り替えながら戦った。

 近距離では格闘。中距離では射撃。遮蔽物があれば戦術。

 だが、男はすべてを見抜いた。

 格闘へ切り替えれば距離を取り、射撃なら障壁を展開する。戦術を選べば、戦場の条件そのものを変えた。

 三十一回目。三十二回目。三十三回目。

 そして、三十五回目。

「……っ、あ……」

 玲司は突然、膝をついた。

 激しい頭痛。揺れる視界。

 知らない声が響く。

 ――右へ回れ。

 ――敵は三人だ。

 ――撃て。

 ――伏せろ。

 ――エリオット!

「……っ、やめ……」

『警告。記憶情報の混線を確認。直ちに能力の使用を停止してください』

 演習場に、別の戦場が重なった。

 崩れた建物。燃える車両。倒れた仲間。

 血に濡れた銀色の指輪。

「……エリオット」

 その瞬間、肩へ手が置かれた。

「玲司。戻れ」

 男の低い声だった。

「ここは戦場じゃない。天城魔術学院の旧中央演習棟だ」

「……学院」

「お前は久遠玲司。十七歳。天城魔術学院高等部二年」

 玲司は目を閉じた。

 自分の名前。年齢。学校。

 少しずつ意識が戻ってくる。

「……僕は、久遠玲司」

「ああ。それでいい」

 知らない戦場が視界から消えた。

『記憶混線率、低下を確認』

「今日は、ここまでだ」

「……でも、まだ勝ててません」

「分かっている。これ以上は危険だ」

 玲司は俯いた。

 格闘家、狙撃手、兵士。

 無数の経験を借りても、男には届かない。

「……僕には、もっと強い自分がいるはずなのに……!」

「強い自分を選べば勝てると思うな」

 男は静かに告げた。

「必要なのは、目の前の敵に勝てる自分だ。強さは答えじゃない」

 玲司は顔を上げた。

「どれだけ強い技術でも、使う場所を間違えれば意味がない」

 男は玲司を見つめる。

「お前が選ぶべきなのは、最も強い自分じゃない。今、この瞬間に必要な自分だ」

     ◇

 翌日、午後六時。

 玲司は再び旧中央演習棟を訪れた。

「身体は?」

「……昨日より、少し楽です」

『急性の損傷増悪は認められていません。ただし、負荷制限は継続中です』

「なら、今日は二十回までだ」

「……また、負けるんですね」

「勝つつもりで来たんじゃないのか?」

 玲司は顔を上げた。

「だったら、最初から負けることを考えるな」

「……はい」

 訓練が始まった。

 三十六回目。

 玲司は格闘家の経験を選んだ。男が距離を取っても追わず、足元を観察する。

 だが、動きを読まれて倒された。

 三十七回目。

 射撃を選び、障壁が展開されても撃たなかった。足元を狙ったが、障壁の位置を変えられた。

 三十八回目。三十九回目。四十回目。

 何度も敗北した。

 けれど、昨日とは違っていた。

「……今の、どうして避けられたんですか」

「お前の視線が先に動いた」

「……どうして、障壁を出したんですか」

「お前が撃つと思ったからだ」

「……でも、撃たなかったら?」

「そのときは別の手を使う」

 玲司は考えた。

 男の視線。呼吸。重心。術式の発動タイミング。

 経験を選ぶ前に、相手を見なければならない。

 少しずつ、それを理解し始めていた。

     ◇

 五十回目。

 玲司は、男の癖に気づいた。

 右手を使う直前、わずかに左足へ重心を移す。

 何度も観察し、確信した。

 男が右手を上げる。

 その瞬間、玲司は左足を狙った。

 模擬弾が床へ着弾する。

 男はわずかに足を引き、重心が崩れた。

「……っ!」

 玲司は踏み込んだ。

 だが、男はすぐに体勢を立て直し、玲司を床へ倒した。

『致命傷判定』

「五十回目」

「……また、負けた」

「ああ。だが、今のは悪くなかった」

「……本当ですか」

「初めて、俺の動きを変えた」

 玲司は目を見開いた。

「お前が選んだ技術じゃない。お前自身が観察して、判断した結果だ」

 その言葉が胸へ落ちた。

 初めて、自分の判断が相手へ届いた。

 勝利には程遠い。

 けれど、確かに前へ進んだ気がした。

     ◇

 六十回目。七十回目。八十回目。

 訓練は数日にわたって続いた。

 玲司は毎日負けた。

 格闘家の経験でも、狙撃手の経験でも、兵士の経験でも、男には勝てなかった。

 けれど、敗北するたびに変わっていった。

 最初は強い技術を探していた。

 次に、相手の動きを見るようになった。

 そして今は、相手が何をしようとしているのか考えている。

 なぜ距離を取ったのか。

 何を防ぐために障壁を展開したのか。

 右手を上げる直前、何が起きているのか。

 何度も考え、何度も間違えた。

 そのたびに、分かることが増えていった。

     ◇

 九十九回目。

 玲司は床へ倒れた。

 喉元に男の指先が触れる。

『致命傷判定』

「九十九回目」

「……あと、一回」

「ああ。次で百回目だ」

 玲司は身体を起こした。

 疲労は蓄積している。頭も重い。

 けれど、最初の頃とは違う。

「……師匠。次、最後にしてもいいですか」

「今日の訓練はな」

「……はい。今度こそ」

 男は何も言わず、玲司を見つめた。

     ◇

 百回目。

 玲司はデバイスを構えなかった。

「……ほう」

 男がわずかに眉を動かす。

 玲司は深く息を吸った。

 一回目。何もできず倒された。

 二回目。記憶の中の敵と戦っていた。

 十一回目。射線しか見ていなかった。

 二十一回目。経験にない魔術へ対応できなかった。

 三十五回目。記憶の混線で自分を見失いかけた。

 五十回目。初めて男の動きを変えた。

 そして、今。

 強い自分を探すのではない。

 必要な自分を選ぶ。

 そのために、まず相手を見る。

 玲司は右足を引き、さらに半歩下がった。

 男が歩き始める。

 右手。左足。重心。視線。呼吸。

 玲司は、そのすべてを観察した。

 そして気づく。

 男は、玲司が攻撃する瞬間を待っている。

 こちらが動けば、その行動へ対応する。

 だから、これまで何度も負けた。

 ならば、相手が対応しなければならない状況を先に作ればいい。

 玲司はデバイスを構えた。

 男の視線が銃口へ向く。

 玲司は引き金を引いた。

 模擬弾が床へ着弾する。

 男は動かない。

 もう一発。今度は男の右側。

 青白い光が散り、男の視線がわずかに動く。

 玲司は見逃さなかった。

 左足へ重心が移る。

 右手が動く。

 障壁を展開する。

 そう判断した玲司は、引き金を引かなかった。

 代わりに、デバイスを下げた。

「……っ」

 男の動きが一瞬止まる。

 玲司は踏み込んだ。

 格闘家でも、狙撃手でも、兵士でもない。

 選んだのは、相手の重心を崩すための最小限の動作。

 左足を踏み込み、男の右側へ回る。

 肩へ触れ、重心をわずかにずらす。

 それだけだった。

 だが。

 男の足が止まった。

 ほんの一瞬。

 確かに、その動きが止まった。

「……っ!」

 次の瞬間、男が玲司の手首を取った。

 身体が反転し、床へ倒される。

 喉元に指先が触れた。

『致命傷判定』

 玲司は天井を見つめた。

 また負けた。

 百回目も、勝てなかった。

「……負けました」

「ああ。百回目だ」

 玲司は目を閉じた。

 悔しかった。

 けれど、不思議と絶望はなかった。

「今のは、よかった」

 男が静かに告げた。

「……え?」

「初めて、俺の動きを止めた」

 玲司は息を呑んだ。

「強い技術を選んだからじゃない。俺の癖を観察して、その瞬間に必要な動きを選んだからだ」

「……でも、結局勝てませんでした」

「ああ。勝てなかった」

 男は頷いた。

「だが、お前は百回目で初めて、俺と戦った」

「……僕と、師匠が?」

「それまでのお前は、借りた経験に戦わせていただけだ」

 男は玲司を見つめた。

「だが、最後の一回は違った。お前自身が考えて、選んだ」

 玲司は震える拳を握った。

 疲労。痛み。

 そして、わずかな達成感。

「……僕が、選んだ」

「ああ」

 男は静かに答えた。

「それが、お前の力だ」

     ◇

 訓練が終わった後、玲司は演習場の壁際へ座っていた。

『神経負荷、許容範囲内。記憶混線率も低下しています。ただし、連日の疲労蓄積が確認されています。明日は休息を推奨します』

「……うん」

 玲司は天井を見上げた。

 百回負けた。

 それでも、最後の一回だけは違った。

 自分の判断で、相手の動きを止めた。

 ほんの一瞬。

 けれど、確かに前へ進んだ。

「……師匠」

「何だ」

「……ありがとうございました」

「礼を言うのは、まだ早い」

「……でも、少しだけ分かった気がします」

 玲司はデバイスを見つめた。

「……強い自分を探すんじゃなくて、今の僕が何を選ぶか」

 男は静かに頷いた。

「忘れるな」

「……はい」

 玲司は立ち上がった。

 身体は疲れていたが、足取りは最初にここへ来たときよりも軽かった。

     ◇

 玲司が帰った後。

 男は誰もいない演習場で、右手を見つめていた。

 先ほど、玲司が自分の動きを止めた瞬間。

 ほんのわずかだが、確かに驚いていた。

「……百回目、か」

 男は苦笑し、端末を取り出した。

 画面には、百回の戦闘記録が並んでいる。

 百回の敗北。

 百回の選択。

 そして、最後の一回。

 男はその映像を繰り返し再生した。

 玲司が重心を崩し、男の動きが一瞬止まる。

 それだけの映像だった。

 けれど、男は長い間見つめていた。

「……やっと、ここまで来たか」

 画面を閉じる。

 そして、誰もいない演習場へ静かに告げた。

「……次は、間違えるなよ」

 その声は誰にも届かず、冷たい夜の空気へ溶けていった。

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