師匠との遭遇
人間は、自分が経験していない出来事を懐かしむことができるのだろうか。
久遠玲司は、ここ数日、その疑問ばかり考えていた。
見知らぬ街。聞いたことのない言葉。顔も知らないはずの仲間。
そして、エリオットという名前。
雨の日には決まって悪態をつき、煙草を吸わないくせにライターを持ち歩いていた男。左手の薬指には、古びた銀色の指輪。
最後の戦闘で、その指輪が血に濡れていたことまで覚えている。
けれど、玲司はエリオットに会ったことがない。
「……おかしいよね」
夕暮れの教室。玲司は机の上の拳銃型デバイスへ話しかけた。
『何を指しているかによります』
「……僕の記憶」
『その件でしたら、極めて異常です』
「もう少し、言い方ってものがないかな」
『では訂正します。非常に興味深い異常です』
「……あんまり変わってない」
ノアは少し沈黙した。
『昨夜の検査では、直近七十二時間以内の出来事に複数の想起遅延が確認されました。一方、未登録記憶は異常なほど高い再現性を示しています』
「……それって」
『実際に経験した出来事より、経験していないはずの出来事を優先して保持している可能性があります』
玲司は口を閉じた。
このまま知らない記憶が増え続けたら。
今朝の食事も、昨日の会話も、澪の笑顔も、朔夜との約束も。
知らない誰かの人生に押し流されてしまうのではないか。
『玲司。私には外部記録との照合が可能です。何を忘れ、何を新しく記憶したのか、記録上の区別はできます』
「……そっか」
『ただし、主観的な自己認識を保証するものではありません』
「……そこは、ちゃんと言うんだね」
『根拠のない安心を提供する機能は搭載されていません』
玲司は小さく笑った。
「……ありがとう、ノア」
『感謝されるほどの処理は行っていません』
「……それでも、ありがとう」
今度は、ノアも何も言わなかった。
◇
午後五時三十八分。
学院の医療棟で追加検査を受けた玲司は、帰宅の準備を終えていた。
先日の戦闘で負傷した朔夜は、すでに帰宅を許可されている。火傷の経過は良好だったが、翌日から訓練を再開しようとして担当医に叱られたらしい。
朔夜らしい。
どれだけ傷ついても、あいつは立ち止まらない。
それに比べて、自分は。
「……また、比べてる」
他人と比べるな。お前には、お前のやり方がある。
朔夜に何度も言われた言葉だった。
玲司が鞄を肩へ掛けたとき、ノアが告げた。
『未登録の通信を受信しました。学院の通信網を経由していません』
「……迷惑通信じゃないの?」
『本文にあなたの氏名が含まれています』
光学画面に、短い文章が表示された。
久遠玲司。
お前が失ったものについて、話がある。
十八時。旧中央演習棟。
一人で来い。
「……失ったもの」
玲司は息を呑んだ。
『送信経路は偽装されており、追跡不能です。指定施設の内部への立ち入りには許可が必要です』
脳裏に黒い外套の魔術師が浮かんだ。
先日、自分を襲撃した男。能力を知っているような口ぶりと、澪を見たときの反応。
偶然とは思えない。
『単独での接触は推奨できません』
「……分かってる」
朔夜へ連絡するべきだ。榊原教官にも報告した方がいい。
玲司は端末で朔夜の名前を選んだ。
だが、送信する直前に指が止まる。
先日の戦闘で傷ついた、朔夜の背中。
また、自分の問題に巻き込むのか。
『玲司。あなたは現在、判断を先延ばしにしています』
「……分かってるよ」
『あなたは、その人物に会いたいのですか?』
玲司は目を伏せた。
会いたいというより、聞きたい。
知らない記憶の正体を。会ったこともない人間の死を悲しめる理由を。
「……知りたいんだ」
玲司は静かに答えた。
「……僕が、何なのか」
◇
旧中央演習棟は、学院の北西端にあった。
かつて大型術式の実証実験に使われていたが、現在はほとんど使用されていない。
午後五時五十七分。
玲司は建物の前へ到着した。
『監視装置を複数確認。うち二基は停止中です』
「……誰かが、止めたのかな」
正面の錆びた扉には、古い学院の紋章が残っていた。
扉は、わずかに開いている。
「……ノア。何かあったら、学院へ連絡して」
『了解しました。通信妨害の可能性を考慮し、位置情報と通信内容は保存済みです』
玲司は扉を押した。
軋む音が響く。
薄暗い内部には、古い標的や魔術障壁の発生装置が残り、壁には無数の焦げ跡があった。
誰もいない。
そう思った瞬間。
「三分前か」
声がした。
演習場の中央に、一人の男が立っていた。
黒い外套。深いフードに隠された顔。
男は両手をポケットに入れ、玲司を見つめていた。
「……あなたが、通信を?」
「ああ。来ると思っていた」
玲司はデバイスへ手を伸ばした。
『警告。対象の魔力反応を解析中』
しかし、男は動かなかった。
「……何者なんですか」
「今のお前には関係ない」
「……関係ないって」
「知りたいのは、俺の名前じゃないだろう」
男はゆっくり歩き始めた。
「お前の中にある、知らない記憶。戦ったことのない敵。訪れたことのない場所。会ったことのない人間」
数メートル手前で立ち止まる。
「そして、死んだはずのない誰かの死」
玲司の心臓が跳ねた。
「……どうして、それを知ってるんですか」
「別世界の自分を選んでいるつもりか?」
玲司は目を見開いた。
別世界。それはノアと辿り着いた、誰にも話していない仮説だった。
「……僕の能力を、知ってるんですか」
「少なくとも、お前よりはな」
男は淡々と答えた。
「だが、お前はまだ選べていない。ただ流れ込んだものを掴んでいるだけだ」
「……そんなこと」
「違うか? 最初は死にかけて勝手に身体が動いた。次は必要な技術が偶然流れ込んだ。先日の戦闘で、ようやく自分から記憶を探した」
すべて正しかった。
「だが、見つけた記憶が本当に必要なものなのか、判断できていない」
玲司は視線を落とした。
確かに朔夜を助けられた。だが、あれが最善の選択だったのかは分からない。
「……でも、朔夜を助けられました」
「ああ。結果としてはな」
「……結果として?」
「お前は、あの戦闘で何を失った?」
男は静かに問いかけた。
「朝食の記憶か? それとも、エリオットという男を失った悲しみか?」
「……っ!」
玲司は一歩後退した。
「……どうして、その名前を」
男は答えず、わずかに目を伏せた。
「お前は力を使うたび、代償を払っている。魔術には代償律があるが、お前の場合はカートリッジの消費だけでは済まない」
男が玲司の胸元を指差した。
「そこにあるものが、少しずつ入れ替わっている」
玲司は胸へ手を当てた。
「……僕は、どうなるんですか」
「使い方を間違えれば、お前はお前でなくなる」
恐れていたことを、はっきり告げられた。
「……じゃあ、使わない方がいいんですか」
「それで済むなら、そうすればいい。だが、お前は使うだろう」
「……どうして?」
「目の前で誰かが傷つくのを見過ごせないからだ。勝てない相手でも、自分が傷つくと分かっていても」
澪と朔夜の顔が浮かんだ。
「大切な誰かを守るために、お前はまた使う」
玲司は拳を握りしめた。
「……だったら、どうすればいいんですか」
◇
男は右手を上げた。
青白い光学画面が展開され、複数の戦闘記録が浮かび上がる。
炎の中を走る自分。人工供物へ銃を向ける自分。二人の魔術犯罪者へ立ち向かう自分。
「……僕の、戦闘記録?」
「ああ」
男が映像を停止させた。
神経伝達速度。運動制御パターン。術式反応。
そして、見慣れない項目。
《外部経験適合率》。
『未登録の解析項目です。算出方法は不明です』
「お前の能力は、単純な身体強化じゃない」
男が複数の波形を示した。
「お前は、別の可能性を持つ自分から経験を読み込んでいる」
格闘を極めた自分。
射撃を磨いた自分。
戦場で仲間を失い、生き残るために戦術を学んだ自分。
「……やっぱり、別世界の僕」
「ああ。お前が見ているのは、夢でも幻覚でもない」
「……本当に、あったことなんですか」
「少なくとも、その世界ではな」
玲司の胸が痛んだ。
知らない戦場も、仲間も、死も。
どこかの世界で本当に起きたこと。
「……じゃあ、エリオットも」
男は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……そんなの、ずるいよ」
玲司は拳を握りしめた。
「……僕は何もしてないのに。その人のこと、何も知らないはずなのに」
声が震えた。
「……悲しいんです」
「それが、経験を借りるということだ」
男は静かに告げた。
「技術だけを都合よく受け取れると思うな。その技術を身につけるまでに、何を失い、何を犠牲にし、何を守れなかったのか」
男は玲司を見つめた。
「すべて、同じ人生の一部だ」
玲司は何も言えなかった。
強くなるために借りる経験は、誰かが生きた人生そのもの。
勝利だけではない。敗北も、後悔も、喪失も含まれている。
「……だから、選び方を覚えろ」
「……選び方?」
「今のお前は、最も強く反応した記憶を掴んでいるだけだ」
「……違うんですか」
「違う。必要なのは、強い自分じゃない」
男は断言した。
「目の前の状況を変えられる自分だ」
「……状況を、変えられる自分」
「可能性が多いことと、正しい選択ができることは違う。必要な経験を選べなければ、どれだけ強い自分を読み込んでも意味がない」
男は右手を差し出した。
「俺が教えてやる」
「……え?」
「経験を選ぶ方法。読み込む範囲を絞る方法。記憶の混線を抑える方法」
それは、玲司が最も知りたいことだった。
「……どうして、僕にそこまでしてくれるんですか」
「お前に、やってもらいたいことがある」
「……何ですか」
「今は教えない」
玲司は眉をひそめた。
「信用できないか?」
「……はい」
「それでいい」
男は少し笑った。
「素性も目的も明かさない相手を、簡単に信用するな」
「……じゃあ、あなたも」
「そうだ。俺も信用するな」
玲司は言葉を失った。
「疑え。考えろ。俺の言葉が正しいか、自分で確かめろ」
男の声に厳しさが宿る。
「お前が身につけるべきなのは、俺の言うことを聞く能力じゃない」
玲司を見据える。
「自分で選ぶ能力だ」
◇
演習場に沈黙が落ちた。
目の前の男は危険かもしれない。自分の能力だけでなく、誰にも話していない記憶まで知っている。
普通なら逃げるべき相手だ。
けれど、男の指摘は正しかった。
自分は能力を使いこなせていない。偶然に頼り、使うたびに記憶を失っている。
このままでは、取り返しのつかないことになる。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「……あなたに教われば、僕は自分を失わずに済むんですか」
男はすぐには答えなかった。
「保証はできない」
「……そう、ですか」
「だが、何も知らずに使い続けるよりは、ずっとましだ」
玲司は顔を上げた。
「自分を失わないために必要なのは、力を使わないことじゃない。自分が何を選んだのか、理解することだ」
玲司はゆっくり息を吸った。
「……お願いします」
頭を下げる。
「……僕に、教えてください」
男はしばらく玲司を見つめ、頷いた。
「いいだろう」
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。明日から、ここへ来い」
「……明日から?」
「学院の授業が終わった後だ」
「……毎日、ですか」
「必要ならな」
「……結構、厳しいんですね」
「当然だ。お前が扱おうとしているのは、そんなに甘い力じゃない」
男は玲司のデバイスを指差した。
「一つ条件がある。訓練中は、好きなだけその力を使え」
「……え?」
「格闘でも射撃でも戦術でもいい。使えると思う経験を、すべて使え」
「……でも、それじゃあ」
「記憶が混線する。頭痛が起きる。自分が誰なのか分からなくなる」
「……分かってるなら」
「だからこそ、制御を覚える。ただし限界を超える前に止める。お前の状態はこちらでも監視する」
「……本当に、できるんですか」
「できなければ、教えるとは言わない」
男は背を向けた。
「明日、十八時。遅れるなよ」
「……はい」
歩き去ろうとする背中を見て、玲司は気づいた。
まだ名前を聞いていない。
「あ、あの!」
「……何だ」
「……あなたの名前。何て呼べばいいですか」
男は振り向かなかった。
「好きに呼べ」
「……好きに?」
玲司は困った。
名前も正体も分からない。けれど、これから力の使い方を教えてくれる人。
「……じゃあ、師匠、で」
男の足が止まった。
「……師匠?」
「……変、ですか。他に思いつかなくて」
男はしばらく沈黙した。
「……いや。それでいい」
玲司はほっと息を吐いた。
「……じゃあ、よろしくお願いします。師匠」
男は振り向かず、静かに答えた。
「……ああ」
◇
玲司が演習棟を去った後。
男は一人、薄暗い演習場に立っていた。
フードへ手を伸ばしたが、外すことはなかった。
代わりに胸元から端末を取り出す。
画面には、玲司の姿が映っていた。
戸惑い。恐怖。そして、最後に見せた決意。
「……師匠、か」
男は小さく苦笑した。
画面を切り替える。
《反射読込》(リフレクションロード)。
《技術読込》(スキルロード)。
《記憶混線率》。
《自己同一性維持指数》。
そして、まだ起動していない項目。
《存在読込》(オーバーロード)。
「……まだ、早い」
画面の下部には、別の記録が表示されていた。
白瀬澪。
その名前と、複数の世界線を示す観測結果。
男はしばらく見つめ、画面を閉じた。
「……今度こそ、間に合わせる」
言葉は冷たい夜の空気へ溶けていった。
明日、久遠玲司は初めて自分の力と真正面から向き合う。
そして、何度も敗北することになる。
どれだけ強い自分を選んでも、優れた技術を借りても、目の前の男には届かない。
その理由を知るまで、少年は何度でも立ち上がらなければならない。
男は最後に振り返った。
誰もいない演習場へ、かつての自分を見るような眼差しを向ける。
「……強くなれ、玲司」
祈りにも似た声だった。
「……俺と同じ間違いを、しないために」




