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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第30話:いつもの剪定と、遠い国の破綻【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

灰色の厚い雲が王都の空をすっぽりと覆い、細い糸のような雨が音もなく地上へと降り注いでいた。


郊外にひっそりと佇む『硝子の庭 調香工房』の温室では、硝子屋根が雨粒を受け止める音を絶え間なく響かせている。 外界の天候に合わせて調整された温室内の空気には、湿った柔らかな土の匂いと、植物たちが放つ青々とした葉の呼吸が満ちていた。


そしてその緑の匂いの奥底には、前日にイリスがここで淹れてくれた珈琲の匂いが、微かな残香となって漂っている。


「……うん、理にかなった状態だ」


ルカは、剪定バサミを手に作業台の前に並べられた鉢植えの前に屈み込んでいた。



パチン、パチン。



静かな雨音とファンの駆動音の隙間を縫うように、心地よい金属の噛み合う音が温室内に響く。


枝が切断される瞬間。

植物の導管から飛沫となって弾け飛ぶ、フレッシュな揮発成分。 ルカの鼻腔と脳内では、ハーブの切り口から噴き出すメントールやリナロールの香りを、『青い光の粒子』として視覚的に捉えていた。


「……ここで切り落とせば、根からの水分が新しい芽へ回るようになるから、少し我慢だ」


ルカは植物に語りかけるように呟きながら、再びハサミを動かした。


パチン、パチン…


過酷だったオストヴァル隔離病棟への遠征。

そこで吸い込んだ『四人の泥棒の酢』の強烈な熱気や、取引によって繋がれた小間使いの男の等身大の欲の匂い。


そして前日、定期便の手紙によってもたらされた特効薬原材料の不自然な買い占めて、過激派たちが政治ゲームを動かし始めたという確信。外界の世界は今、無数の思惑と陰謀が絡み合い、揺れ動いている。


しかし。


外のノイズが濃い時ほど、ルカはこうして温室の植物たちに触れる『いつもの手作業』を大切にしていた。それは、自らの『鼻の目盛り』を狂わせないための、調香師としての儀式でもあった。


「……ルカ。そんなに根元から切って、枯れないのか?」


ふと、背後から声をかけられた。

振り返ると、手元の帳簿から顔を上げたテオが、ルカの手元を覗き込んでいた。


「枯れないよ、テオ。植物の生命力を信じて、あえて深く切り込むことで、次に生えてくる葉の香りが格段に強くなるんだ。これは破壊じゃなくて、再生のための合理的なプロセスなんだ」


テオは「なるほどな」と小さく息を吐いた。

テオの顔にも、昨日の手紙を受け取った時のような緊張感は消えていた。 事業を拡大し盤面を動かす若旦那としての熱を、イリスの珈琲で解きほぐした彼は、今は完全に『硝子の庭の支配人』としての顔を取り戻していた。


玄関近くの執務室では、糊の効いた白いエプロン姿のリーゼが、『環境変数の違いによる香気成分への影響』というタイトルを羊皮紙に書き込んでいる。昨日のイリスの言葉を検証しているようだ。


ジンは遠征で使った道具の泥を、丁寧に布で拭き取っていた。



パチン、パチン。



ルカのハサミの音が、心地よく温室に溶け込んでいく。 それは、穏やかで、満ち足りた朝の風景であった。


***


パチン、パチンと心地よい剪定の音が温室に響き続けていた時だった。

入り口に設置された郵便箱が


ガタンッ!


と昨日よりも荒々しい音を立てて大きく揺れた。

テオが即座に立ち上がり、迷いのない足取りで箱に駆け寄る。


そこには、いつもの定期便の束に紛れ込むような形ではなく、単独で乱雑に押し込まれた一通の封筒があった。

宛名はない。

だが、封筒の端が泥で汚れ、急いで封蝋を垂らした形跡があることから、それがただならぬ状況下で送られたものであることは一目瞭然だった。


「……ルカ。小間使いの男からの、緊急の便りだ」


テオの声は、緊張を孕んでいる。

ルカはハサミを動かす手を止め、静かに立ち上がってテオの元へ歩み寄った。

テオがリーゼに差し出されたペーパーナイフで素早く封を切り、中の便箋を引き出す。

その瞬間に漏れ出した匂いを、ルカの特異な嗅覚が捉えた。


(……おかしいな)


昨日届いた最初の手紙からは、隔離病棟の『四人の泥棒の酢』の強烈な酸味と、物資が届かないことに対する焦燥の匂いがはっきりと読み取れた。だが、今回の便箋から漂ってくるのは、それらとは全く異なる成分だった。


信じられない光景を目の当たりにした人間の『異常な興奮の汗』の匂いと、群衆が発する『大パニックの熱気』。そして……どこか滑稽なことへの『呆れ』の感情が、インクの匂いにこびりついていたのだ。


「昨日の今日で何か進展があったの?テオ」


便箋に視線を落としていたテオの顔が、驚きと、冷ややかな納得によって硬直していくのが見えた。


「……信じられないことが起きた、らしい」


テオは便箋を持ったまま、ルカに告げる。


「過激派と反発貴族たちが……オストヴァルの領民を巻き込む前に、『自滅』した」


「え?…自滅」


ルカも、後ろに控えていたリーゼさえも、キョトンとした。



テオが読み上げる手紙の内容は、ルカたちの予測を超える、不条理で因果応報な破綻の記録であった。







 



穏やかな雨の温室に届いた、隔離病棟からの緊急報告。

明かされたのは、過激派と反発貴族たちによる「前代未聞の自滅劇」だった!

自滅劇の全貌とは?!後編へ続きます!


***


最後までお読みいただきありがとうございます!

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