第29話:温かい珈琲と、最初の便り【後編】
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温かな珈琲の香りに満たされた、穏やかな安息の時間。
その空気を微かに揺らすように、玄関脇に設置された郵便箱が、「コトン」と小さな乾いた音を立てた。
「お、ランバート商会の下請け定期便だな」
テオが歩み寄り、届けられたばかりの書類の束を回収する。その中から、一枚だけ宛名の書かれていない、粗末な羊皮紙の封筒を見つけ出した。
「……ルカ。来たぞ」
テオの顔つきが、支配人のそれへと切り替わる。 それは隔離病棟で、テオが小間使いの男に銀貨を握らせて繋いだ『情報ハブ』からの、最初の便りだった。ルカは手元のカップを静かに置き、差し出されたその封筒を受け取った。
封を切った瞬間。
リビングに満ちていた心地よい午後の香りを鋭く切り裂くように、酸っぱくて刺々しい悪臭が、ツンと鼻を突いた。
「……間違いない。紙の繊維の奥深くに、オレアノール酸とシネオール、そして強烈な酢酸の匂いが染み込んでいる。隔離病棟の『四人の泥棒の酢』の残滓だ」
情報源を確認したルカは、そこに書き殴られた文字の羅列を精査した。
「……動き出したよ、テオ」
ルカの静かな声に、空気がピンと張り詰める。マーサとイリスも、そのただならぬ気配に静かに耳を傾けていた。
「小間使いの報告によると……ここ数日、隔離病棟に届くはずだった『薬の原材料になるカンファー、クローブ、ミルラ』の搬入がストップしたそうだよ。そして、その物資のすべてが……『ヴェルター公爵に反発する貴族の直轄領』へ迂回して、集まり始めていると書いてあるね」
「……交易所の商人や、現地の医師から聞いた噂の通りか」
テオが顔をしかめ、これまでに得た情報のピースを頭の中で繋ぎ合わせた。
「薬師ギルドの過激派どもが、東の反発貴族たちに恩を売るために、具体的な行動に出たんだな」
ルカは静かに頷き、過激派の非合理的な思考ロジックを読み解いていく。
「彼らは、あのペストマスクの中に特定のハーブを詰める手法こそが『絶対の特効薬』だと盲信している。それを貴族たちに独占的に提供する。強固な権力のパイプを作るために、市場から原材料を不当に買い占めて、横流ししているんだ」
だがルカは、そこで言葉を切り、手紙に視線を落としたまま微かに眉をひそめた。 ルカは、この出来事の裏に潜む『奇妙なエラー』を捉えていた。
「でも、この状況は…ひどく歪んでいる」
ルカの指摘に、テオが尋ねる。
「どういうことだ?」
「手紙の主である小間使いは、物資が届かないとひどく焦っているけれど……実際のところ、マーサの教えを守る現場の薬師や看護人たちは、『四人の泥棒の酢』や独自の生薬によるロジックで場を回してる。だから、この特定のハーブを買い占められたところで、隔離病棟の機能に致命的な打撃はないんだよ」
過激派たちは、東のヴェルター侯爵肝入りの隔離病棟を見捨てるつもりで物資を奪ったが、現場の知恵はすでにその欠落をカバーしている。
そして何より、最も致命的な歪みがもう一つ存在していた。
「それに……過激派たちが特効薬だと盲信しているあのハーブの処方は、東の国の気候下で調合されると、成分同士が反発して薬効が完全に中和してしまう。……あれはただの『欠陥品』だ。彼らはそのことに、まったく気づいていないんだよ」
過激派の盲信による空回りと、無意味な欠陥品を作り出すための不自然な物資の迂回。
現場の切実な命のやり取りと、権力者たちの思惑が、噛み合っていないのだ。
この『奇妙な歪み』が、温室の中に静かな緊張感をもたらしていた。
「……なるほどね。上がどれだけ綺麗事で着飾ろうと、中身はただのガラクタってわけだ」
マーサが杖を強く突き、腹の底から低く唸った。
「馬鹿な連中には、そのガラクタを後生大事に抱えさせておきな。うちの若いもんは、安い酢と泥臭い知恵だけで、本物の命を繋いでみせるさ」
彼らの盲信と政治的なゲームによって、幾万の命が無防備なまま危険に晒されようとしているかのようで、その実そうではない。
迫り来る不条理なバグの足音を、温室に集った人々は静かに共有していた。
重く不穏な空気が温室に沈殿しかけた、その直後だった。
コツ、コツと硬質な足音を響かせながら、リーゼがイリスの目の前まで進み出た。
先日のルカとテオからの真っ直ぐな感謝による『一割増しの喜び』が尾を引き、これまで彼女を覆っていた『行き過ぎた鎧』の効力は、四割ほど減衰した状態で定着しているようだった。
「イリス様。一つ、よろしいでしょうか」
リーゼは透き通った瞳で、イリスが手にした銅製のドリップポットを真っ直ぐに指差した。
「先ほどの珈琲の抽出時間ですが、イリス様の経営なさっている店舗『ブルーム』の基準規定値よりも三・五秒長かったです。これでは、豆の持つ成分のポテンシャルが正確に引き出されません。仕様の改善をお願いいたします」
「リーゼ……」
静かな緊張感を一瞬にしてぶち壊した従業員の暴走に、テオが止めに入る。
「プロの焙煎士が淹れた極上の珈琲に、秒数のデータで駄目出しするなよ」
しかし、指摘された当のイリスは怒るどころか、面白そうに目を細めてふわりと笑った。
「うふふ、リーゼちゃん、いい着眼点よ」
イリスはリーゼの目を優しく見返した。
「いいこと?リーゼちゃん。珈琲の香りは、その空間の湿度とか気圧とか、あと一緒にいる人たちの『体温』の違いで、引き出され方が変わるのよ。おもしろいでしょう?」
イリスがニコリと微笑む。
「はい、大変興味深いです」
リーゼは記録を始めた。
「うふっ。よかったら今度、私の店と、この温室の『抽出環境の違い』について、じっくり教えてあげるわ」
「……環境変数の違い、ですか。承知いたしました。次回のデータ更新に組み込みます」
真面目に頷くリーゼと、すべてを包み込むようなイリス。二人のやり取りによって、温室はいつもの穏やかな空気へ引き戻された。
一方ルカは、手紙がもたらした不整合な情報の処理で、脳が急速にエネルギーを消費させて、熱を持ち始めていた。 彼は無意識のうちに平熱を取り戻そうと、湿った大地の匂いが最も色濃い床へごろんと寝転がろうとする。しかし、その動きを察知したリーゼがすかさず背後に回り込み、
「床冷えは推奨いたしません」
と、小豆色の『光合成用クッション』をルカの後頭部にスッと差し込んだ。 床の匂いを直接吸い込みたかったルカは、クッションの厚みに阻まれて「むう」と小さく唸る。
「ほら、床で拗ねてないでさっさと起き上がって飲め。冷めるぞ。……というかリーゼ、それはお前のためのものだろう?ルカにも必要なら別に買ってきてやるから」
テオが世話焼きな苦笑いを浮かべて、ルカの手に珈琲のカップを持たせた。ルカは渋々身を起こし、手元のカップを持ち上げる。そこから立ち昇るイリスの珈琲の香ばしい湯気を深く吸い込むと、手紙に付着していた悪臭が、スッと脳内からリセットされていくのが分かった。
「……うん、とても理にかなった香りだ」
満ち足りた午後の香りが漂う温室内で、極上の珈琲と、イリスが持ち込んでくれたサクサクとした焼き菓子を味わう。五人の間に、ただ静かにその時間を楽しむ、心地よい咀嚼音が響いていた。
ふと、イリスの膝の上で丸くなっていたモカが、「ぽわ」と気の抜けたような声で短く鳴いた。
お餅のような体を伸ばし、モカは集まった人々の温かい体温と、手紙がもたらした『利権の歪み』の匂いを同時に
「すぅぅぅぅぅ」
と吸い込む。
そして、喉の奥でコロンと澄んだ音を鳴らし、一つの結晶を吐き出した。ルカはそれをそっと拾い上げ、ランプの柔らかな光に透かす。
結晶のベースは、イリスの淹れた珈琲のように艶のある『深い琥珀色』をしていた。しかし、その中心部には、東の国の不穏な動きを示す『黒いハーブの葉』のような禍々しい模様が、ピキッと亀裂のように入っている。
「……時が、進んでいるね」
ルカは琥珀色に沈む黒い影を見つめながら、瞳を細めて静かに呟いた。
温かい珈琲の余韻の底で、彼らが繋がってしまった情勢は、もう止められない速度で静かにカウントダウンを始めていた。
次回からは第30話がスタートします。
隔離病棟から届いた手紙。
そこで明かされた過激派の陰謀は……まさかの!?
そして、 琥珀色に黒い亀裂が入った結晶が告げる展開とは。
次の更新もお楽しみに!
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