第29話:温かい珈琲と、最初の便り【中編】
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「さあ、立ち話はそのくらいにして。冷えた体を少し温めましょうか」
イリスが手にした籠から、布に包まれた珈琲豆の保存瓶と、使い込まれた抽出用の銅製ドリップポットを取り出した。いつもの作業台の一部が手際よく片付けられ、イリスが洗練された滑らかな所作で、挽きたての豆に細くゆっくりとお湯を注いでいく。ぷっくりとドーム状に膨らむ珈琲の粉から、深く、甘く、そして微かな苦味を伴った極上のロースト香がふわりと立ち昇る。
「……ぽわぁぁっ」
モカ・シダモの香りではないものの、久しぶりに立ち昇る珈琲の香りにモカが跳ね上がっている。
その香りが温室の植物たちが放つ瑞々しい呼吸と優しく混ざり合い、室内はたちまち、心を解きほぐす満ち足りた午後の香りへと塗り替えられていった。
「……テオくん」
全員に温かな珈琲が入ったカップが配られた後。
イリスは自分のカップを両手で包み込みながら、二歳年下の青年へと、静かに視線を向けた。
「今回は、実家の商会の看板も背負って、ずいぶん大きな盤面のゲームを動かしてきたみたいね」
イリスのその言葉に、テオは仕立ての良いジャケットの肩をビクッと跳ねさせた。
彼女は温室の帳簿を直接覗き見たわけではない。
ただ、王都でビジネスを営んでいれば自然と耳に入ってくる大規模な物流の噂から、彼が『ランバート商会』の名をハックして独自のシステムを構築したことを読み取り、テオが纏って帰ってきた空気の微かな変化で確信を得ていたのだ。
「……なんでもお見通し、か」
「ふふ。だてにあなたより二年長く、この王都で商人の空気を吸っていないわ」
イリスは、少し背伸びをして巨大な盤面を回してきた青年の奮闘を気遣うように、クスリと笑った。
まるで世話の焼ける弟を見るような、親愛と深い敬意の混じった優しい眼差しだった。
「……どう? 大商人の若旦那として振る舞ってみて、少し『知恵熱』が出ていない?」
「えっ?」
その穏やかな問いかけに、テオは言葉を詰まらせ、自らの手にあるカップの温もりを見つめた。
避難所での荷下ろしの最中。
数え切れないほどの人間が、自分たちの香水によって状況を変化させ、命の経済圏に噛んでいるのだというスケール感に触れた。確かにテオの胸には、商業という盤面を動かす熱が走った。
だが同時に、『このまま事業を拡大し続ければ、ルカと過ごすこの温室の穏やかな日常を守り切れなくなるのではないか』という、葛藤の種も抱え込んでいたのだ。
だが今、こうして淹れたての珈琲から立ち昇る安堵の香りを吸い込み、イリスの微笑みと、自分たちの原点を知るマーサの揺るぎない体温に触れていると――。
過酷な遠征先で抱え込んだ胸の強張りが、ゆっくりと解けていくのを感じた。
(……ああ、そうか)
テオは鼻腔を満たす香ばしい匂いと共に、小さく息を吐き出した。
(俺が事業を拡大したのは、正義感や責任感、まして権力や名声が欲しかったからじゃない。……俺が手放したくない『過不足のない凪いだ日常』は、間違いなくこの温室の香りであり、この人たちが生み出す心地よい温度のことだった)
外の盤面がどれほど巨大になろうと、自分が帰るべき場所はここしかない。
『ランバート商会の若旦那』ではなく、『硝子の庭 調香工房の支配人』として。
ルカの特異な才能を活かし、この温室の安息を紡ぎ続けるためだけに、実家の看板だろうが悪徳ギルドだろうが、使える手札はすべて合理的に使い倒すのみだ。
「うん。…知恵熱なんて出てないよ」
テオはカップの縁に口をつけ、少しだけ誇らしげな、それでいて憑き物が落ちたような晴れやかな顔で笑った。
「俺はただ、この温室の日常と安全を守るために、一番理にかなった効率の良い手札を切ってきただけだから」
「そう。なら、心配いらないわね。ふふっ」
迷いの消えたテオの顔を見て、イリスもまた、安心したように柔らかな微笑みを浮かべてカップへ口をつけた。
外の世界に吹き荒れる陰謀の冷たい風と、温室の中にある確かな体温。
ルカとテオは、自分たちの帰るべき基盤を再び強く噛み締めながら、穏やかな珈琲の時間を味わっていた。
大人な焙煎士・イリスには、若き支配人の背負った無理などお見通し。
実家の看板を使ってまでテオが守りたかった、ただ一つの「帰るべき場所」。
迷いの消えた相棒の晴れやかな笑顔
――しかし次回、隔離病棟の「あの男」から不穏な手紙が届く! 後編へ
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