第3話:悪意の連鎖と、澱んだ結晶【後編】
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香りを吸い込んだバルガスの巨体が、痙攣したように硬直した。アコニチンの成分が嗅覚神経を突き抜け、脳の最奥に眠る恐怖の記憶を強制的に引きずり出す。
「ーー表面を飾る『支配者』という虚飾のトップノートが消え去った後に残る、本当のラストノート」
ひんやりとした温室に、ルカの声だけが静かに落ちる。
「すべてを失い、誰からも顧みられず、泥の中で這いつくばる。君が心の底で最も恐れている『逃れようのない孤独と破滅』の香りだよ。存分に味わうといい」
バルガスの瞳孔が大きく開いた。
彼の脳内では今、香りの成分によって引き起こされた幻視が鮮明に再生されているはずだ。 豪奢なシルクの外套を剥ぎ取られ、かつて見下していた小作人たちに冷たい目で見下ろされながら、泥水をすすって飢えに苦しむ自身の惨めな姿が。
「くっ、うぁあ……っ! やめろ、いやだ、やめてくれぇぇ!!」
バルガスは理性を失ったように頭を抱え、後ずさった。 もはや目の前にいるルカたちのことなど見えていない。彼を支配しているのは、自身の内側から溢れ出した抗いようのない恐怖だけだった。
「来るな! 儂から奪うなぁ!!」
バルガスは無様に這いずり回り、自慢の高級外套を泥だらけにしながら、開け放たれた扉から激しい雨の降る夜の闇へと転がり出ていった。彼が再びこの街で権力を振りかざすことは、もう二度とないだろう。
「……ラストノートまで揮発した空っぽの器には、もう興味はない」
ルカは厳重に小瓶の蓋を締め直して、テーブルに置いた。
バルガスの本質を暴き切ってバグを排除した途端、ルカの思考回路から急速に電流が失われていく。骨抜きになったように膝から崩れ落ち、ひんやりとしたテラコッタタイルの床で歴史の染みに還ろうとしたその時だった。
「ケホッ、ェェッ……!」
ルカの足元で、異様な音が響いた。
普段は「ぽわ」と愛らしく鳴くはずのモカが、柔らかな身をよじって苦しみ、何かを吐き出そうと嘔吐いている。
「モカ……!?」
ゴトン、と重く不快な音を立てて、床に『それ』が転がり落ちた。 黒褐色にひどく澱み、無数の棘を生やした、禍々しい結晶。
バルガスが撒き散らした泥のような悪意や支配欲、そして先ほどの凄まじい恐怖の残り香を無理に吸い込んだ結果生み出された『澱んだ結晶』だ。
「ルカ、下がれ。お前はそれに触るな」
鋭い声とともに、テオが金属製の長いトングを手に駆け寄った。テオは一切の躊躇なくその澱んだ結晶を掴み上げると、棚の奥に用意してあった分厚い硝子製の瓶の中へと放り込む。ガチャンと冷たい音が響いた。そしてルカに問いただす。
「お前、あの香りは何だ?俺たちは吸い込んでも大丈夫だったのか?」
ルカは平然と答えた。
「安心してテオ。調香プロセスにおける致死性ミストの吸引を防ぐために僕は調香中にマスクをしていたけど。希釈済みの常温で揮発するアコニチンは、心臓を止めるには遠く及ばないから」
「いや、なんかものすごい劇薬じゃないのか?あの地主の反応」
ジンが眉根を寄せる。
「もし嗅いじゃったとしてもテオとジンなら、ちょっと嫌な夢見るくらいじゃないかな」
飄々と答えるルカだが、まもなく過集中で崩れ落ちる頃合いだ。
「俺たちがちょっと嫌な夢を見ることを意に介さないお前の感覚には閉口するが、もういい。飯にするぞ」
テオがルカの鼻先に、強烈なスパイスの匂いを放つ小袋を容赦なく突きつけた。
「んぐぅ…カルダモンとクミンの粗挽き……!? 脳髄がスパイスに、染まる……っ」
「立て」
いつもより乱暴なテオに両脇を抱えられ、ずれた丸眼鏡を直す間もなく、ルカは温室からリビングへズルズルと引きずり出され、ジンも飯の声に反応して席につく。
ガチ、と重い真鍮のレバーを引く心地よい音が響いた。 雨が小降りになったのを見計らい、テオが歯車を回して天窓の換気システムを起動させる。外の冷たい空気が静かに流れ込み、同時に温室内のエア・モスが一斉に淡い燐光を放ち始めた。
バルガスが残していった微かな腐臭すらも、苔が時間をかけて分解し、空間は清浄な夜の空気へと少しずつ塗り替えられていく。
「さあ、遅めの夜食にしよう。今日は、ジンが持ち込んだ野生の羊肉と、農家と交換した冬野菜を使った黒ビール煮込みだ」
テオが白シャツの袖を捲り直し、テーブルの中央に無骨な鉄鍋をコトンと置いた。 温室の熱源を利用して、丸一日じっくりと低温で放置しておいたものだ。
重い蓋を開けると、漆黒のソースの中で骨付きの羊肉が繊維からホロホロと崩れかけ、たっぷりと旨味を吸い込んだ人参や玉ねぎが、透き通るような琥珀色に輝いていた。まさに長時間の煮込みがもたらす時間の魔法だ。
テオは食べる直前の仕上げとして、温室で摘み取った新鮮なローズマリーとタイムを惜しげなく散らし、木製のミルで粗挽きの黒胡椒をガリッと挽く。
途端に、野性味のある肉の重厚な旨味と、弾けるようなスパイス、そして青々しいハーブの香りが一気に立ち昇った。
「おお!これは胃の腑が鳴るねぇ」
それに合わせるように、白磁のカップにはイリスの店で焙煎された特製ブレンド『ブルームグレイ』の紅茶が注がれる。ベルガモットの華やかで凛とした柑橘の香りが、肉の濃厚な脂を優しく中和し、食卓を品よく包み込んでいた。
「……ふぅ。すり減った五感が、本来の機能を取り戻していくのが分かるよ。さっきまでの泥のような悪臭が、まるで嘘みたいだ」
ルカがナイフで柔らかい羊肉を崩しながら呟くと、テオが小さく胸を張った。
「当たり前だ。お前が温室でグダグダになっている間も、俺が最高のタイミングを測っていたんだからな」
ルカたちがフォークを手に取り、そのうっとりするような一皿を味わおうとしたその時。
ジンが無造作に、土のついた小さな麻袋をテーブルの端に放り投げた。 じゃらり、と微かに乾いた心地よい音が響く。
「……ジン、これは?」
ルカがずれた丸眼鏡の位置を直しながら問いかけると、ジンは無精髭の生えた口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「俺からの土産だ。西の山脈のさらに奥深く、名もなき渓谷で見つけてきた『在来種の種』だよ」
「在来種……? 中央が新たな品種を独占するために、栽培を禁じているはずの……」
「ああ。だが、土はそこで汗を流して生きる者たちのものだ。中央の虚飾にまみれた常識なんて知ったことか。この種があれば、あのふんぞり返った地主がいなくなっても、小作人たちは自分たちの力で大地に根を張り、飢えずに真っ当に生きていける」
ジンの言葉には、過酷な自然のサイクルを生き抜いてきた者だけが持つ、揺るぎない希望と諦念の入り混じった重みがあった。
バルガスが残した澱んだ悪意の結晶は冷たい瓶の底に落とされたが、代わりにジンが持ち帰ってきたのは、理不尽なシステムに立ち向かうための、小さくも逞しい生命の萌芽だった。
「さて、理屈っぽい話は後だ。俺は山を下りてきたばかりで腹が減って死にそうなんだ。その美味そうな肉、早く寄こせ」
ジンが豪快に笑うと、テオは感謝を込めて骨付き肉を取り分けた。
口に運べば、濃厚な肉の脂とスパイスの香りが広がる。耳から心地よい咀嚼音が響き、芳醇な味わいが、使い果たしたエネルギーをゆっくりと満たしていく。
食事が終わり、深い余韻がテーブルを包んだ頃。
ルカたちの足元から、生成色の毛玉が
「ぽわぁ……」
と小さく穏やかな声を漏らした。 モカが煉瓦の床を弾むように移動し、空間に残された濃厚な食事の匂いと、微かに漂っていた緊迫感の残り香を
「すぅぅぅ……」
と一息に吸い込んでいく。
負の感情はすでに吐き出していたからか、空間がすっきりと無臭にリセットされたその瞬間、モカはゲップの代わりに、愛らしく喉を鳴らした。
――コロン。
床の上を転がったのは、先ほどの禍々しいものとは対照的な、琥珀色に澄んだ美しい結晶だった。日常の恵みから生まれた、あたたかな光を宿している。
「わ!モカ、これはいい保留剤になりそうだ。ありがとう!」
ルカが瞳を細め、テオが呆れ半分、安堵半分の表情でそっと拾い上げた。 同時に、温室の空気は、瑞々しい朝露の香りへと心地よく塗り替えられていた。
分厚い硝子屋根を打ち付けていた激しい雨音も、いつしか静かな子守唄のような優しいリズムへと変わっていた。
ーーこの『硝子の庭』の静謐な日常に、次は落ち着かない若者の旋風が舞い込んで来ることを、この日の3人はまだ知らない。
次回から第4話がスタートします。
嵐が去り、清浄な空気を取り戻した温室にやってくる新たな旋風とは?
次の更新もお楽しみに!
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