第4話:泥土のベチバーと、不揃いな原石【前編】
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王都の郊外、深い緑の入り口に佇む石造りの館。
その正面に増築された広大な温室『硝子の庭』には、今日も穏やかな朝の光が降り注いでいた。 天窓の真鍮製の歯車が微かな音を立てて空気を循環させ、無数の植物たちが光合成の心地よい吐息を漏らす。
しかし、そのテラコッタタイルの上では、天才調香師たるルカが今朝もまた、白衣を埃まみれにしながら完全に腹這いになっていた。
「……素晴らしい。君の吐き出す糸の張力、そしてこの幾何学的な構造。昨晩から今朝にかけての急激な湿度の低下と風向きの変化を、隙のないロジックで予測して設計されているね。特にこの三番目の支持糸の角度なんて、僕の香りのレイヤー構築にも応用できそうなほど美しいよ……」
銀縁の丸眼鏡をずり落ちそうにしながら、ルカが熱心に“対話”をしている相手は、大型のシダ植物の葉と葉の間に見事な円網を張った一匹の蜘蛛である。ルカの過敏な鼻は、蜘蛛の糸が放つ微細なタンパク質の匂いすらも嗅ぎ取り、そこから彼らの生存戦略の変数を読み解こうと没頭していた。
「……朝っぱらから床に這いつくばって、虫と建築論を交わすのはやめろ」
背後から降ってきたのは、どこか呆れと諦めが入り混じったテオの声だった。
パリッと糊の効いた清潔な生成りのシャツに身を包んだ若き支配人は、両手に朝食の皿を持ちながら、足元に転がる幼馴染を見下ろしている。
「あ、テオ。聞いてよ、この蜘蛛の巣の耐荷重ロジックがね――」
「俺は蜘蛛の城に興味はない。朝飯だぞ」
テオはルカの抗議を一切無視し、空いている足のつま先でルカの脇腹を軽く小突いた後、有無を言わさずその白衣の襟首をガシリと掴んだ。そして、「うぇっ」と情けない声を上げるルカを、床からずるずると引きずり起こし、強制的にリビングのテーブルへと連行した。
「ほら、食え。今日はお前の好きな半熟卵と、昨日焼いたライ麦パンだ。さっさと栄養を摂取して、人間としての生活を取り戻せ」
「……テオは本当に、インスピレーションというものに容赦がないね」
文句を言いながらも、ルカは大人しく椅子に座り、パンをちぎって口に運んだ。テオが淹れた温かいハーブティーを一口飲むと、夜通し思考を巡らせていた脳の熱が、スッと心地よい温度にまで下がっていくのを感じる。 二人の、いつもの静かで規則正しい朝の風景。
しかし、その平穏な通常営業は、突如として響いた鈍い音によって破られた。
――ドスッ。
玄関の扉に、何かがぶつかるような、あるいは力尽きて寄りかかったような、重く鈍い音。
テオが濃紺の瞳に警戒の色を浮かべながら扉を開けると、そこには大量の羊皮紙の束を抱え込んだまま、文字通り「崩れ落ちる」ように倒れ込んできた一人の青年の姿があった。
「うわっ……おい、大丈夫か」
テオが咄嗟に書類ごと青年を受け止める。
「あ、ああ……すみません、ここは……『硝子の庭』で、間違いない、でしょうか……?」
掠れた声で這うように顔を上げたその青年を見て、ルカとテオは思わず顔を見合わせた。
年の頃は二十代前半といったところか。しかし、その顔色は土気色を通り越して青白く、目の下にはまるで墨で殴られたかのようなドス黒い隈がくっきりと刻み込まれていた。仕立ての悪くない麻のシャツとスラックスはシワだらけで、所々に泥跳ねの跡がある。
何より、彼が大事そうに胸に抱え込んでいる羊皮紙の束は、どう見ても一人の人間が処理できる業務量の限界を優に超えていた。
「……ひどい匂いだね。極度の睡眠不足による血中の乳酸の酸化臭、それに、大量のインクの匂いと、インスピレーションがすっかり枯渇して焦げ付いたような脳の匂いがする」
ルカが鼻をひくつかせ、やや跳ね気味の亜麻色の髪を揺らしながら、その症状を瞬時に分析する。
「匂いを嗅ぐ前に手伝え。こいつ、立ったまま気絶しかけてるぞ」
テオは溜息をつきながら青年を温室のベンチへと運び、ルカが即座に気付けのペパーミントとレモンを配合した香水瓶の蓋を開け、青年の鼻先にそっと近づけた。
鋭く清涼な香りが脳天を突き抜けたのか、青年は「ひゅっ」と息を吸い込み、バチッと目を見開いた。
「あ、あれ!? 僕は……そうだ、助けを求めに……!」
「今、ハーブティーを淹れるから、待っていてくれ」
テオは青年が正気を取り戻したのを確認すると、手早くカモミールティーを用意してテーブルに戻ってきた。
青年はベンチの上でそっと身を起こし、カモミールティーを口に含んで腰を掛け直すと、目の前に立つルカとテオを交互に見つめた。
「あなたが、どんな難解な香りでも作り出すという、天才調香師のルカさんですね! お願いです、僕を助けてください!」
青年は勢いよく頭を下げた。自己紹介によれば、彼の名前はエリアン。王都の中央官庁で下働きをしている文官だという。
「助けるって……借金取りにでも追われているのか?」
テオが商人としてではなく、純粋な観察眼で、エリアンの着ている服の生地や靴のすり減り具合を値踏みしながら尋ねる。
「いえ、借金ではなく……『夢』と『書類』に押し潰されそうなんです」
エリアンはベンチの上にドサッと羊皮紙の束を置くと、その束の一番上にあった分厚い企画書を指差した。
「実は僕、街の南の境界にある『忘れられた荒野』を、子供たちのための広大な遊びと学びの場……自然公園にするプロジェクトの責任者に任命されたんです」
エリアンの目に、一瞬だけかつての情熱の光が宿った。
「あそこには、王都の綺麗に整えられた庭園にはない、手つかずの自然がある。子供たちが泥まみれになって走り回って、虫を捕まえて…自ら考えて遊ぶ場所を作りたい。その企画が通って、予算が下りることになったんです。僕は歓喜しました。ついに自分の理想が形になるんだと」
「素晴らしいインスピレーションだね。手つかずの自然には、未知の香りの変数が無限に眠っている。僕も賛成だよ」
ルカが目を輝かせて身を乗り出す。 しかし、エリアンの表情はすぐに、元の絶望的な土気色へと戻ってしまった。
「……ええ、僕もそう思っていました。でも、いざプロジェクトが動き出してみると……現実は『夢』なんて語る暇もないほどの、終わりの見えない実務の山だったんです」
エリアンは両手で頭を抱え、震える声でその絶望的なラインナップを語り始めた。
「荒野を切り開くための膨大な草刈りと土木作業。各ギルドや役所への根回し。周辺住民からの騒音苦情を想定した事前説明会の開催。そして上司への進捗報告書の作成……」
「……あぁ、なるほど」
テオが腕を組み、深く納得したように頷いた。実務と調整のプロである彼には、その言葉の裏にある胃の痛くなるような絶望感が痛いほど理解できた。
「誰も手伝ってくれないんです。 上の連中は『君のプロジェクトだろう』と丸投げだし、現場の作業員たちは『指示書がないと動けない』と文句を言う。僕は昼間は役所やギルドを駆け回って頭を下げ続け、夜は現場の測量と書類作成で、もう三日間ほとんど眠れていません!」
エリアンは目の下の隈をさらに濃くして、ルカの白衣の袖にすがりついた。
「もう、限界なんです……。僕が倒れたら、このプロジェクトは頓挫してしまう。だからルカさん、お願いします! 僕に香りを処方してください!」
「香りって……リラックスするための安眠の香りかい?」
ルカが小首を傾げると、エリアンは血走った目で首を横に激しく振った。
「違います! 欲しいのは、あと一週間は『徹夜で動き続けられる無限の体力を湧き上がらせる香り』です! そしてもう一つ、『役所の頑固な大人たちを黙らせることができる強いカリスマ性の香り』をください! このままだと、僕はあの実務の波に呑まれて…死ぬかもしれない…」
それはもはや、調香の依頼というよりも、限界を迎えた人間の悲痛な命乞いであった。
切羽詰まったエリアンの要求に、ルカは丸眼鏡の奥でパチパチと目を瞬かせ、テオは「これはまた、最高に骨の折れるのが来たな」と、こめかみを押さえて深く、重い溜息をついたのであった。
そして。
悲鳴に近いエリアンの懇願を聞いていたルカの瞳に、奇妙な熱が灯った。
徹夜で働き続けるための体力と、大人を黙らせるカリスマ。
限界を迎えた青年の無茶な願いに、天才調香師の危険なインスピレーションが起動する。
次回、波乱の中編へ続きます。
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