第25話:錆びた秤と、過激派の尻尾【後編】
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寒風吹きすさぶ渓谷の底。
出荷待ちの倉庫の裏窓、そのわずかな隙間から漏れ出してくる、大量のハーブが放つ重い匂い。ルカは深いダークブラウンの瞳を閉じ、生成りの麻のストール越しに、その香りの層を静かに、そして精密に解体していく。
やがて、ルカはゆっくりと目を開き、言葉数を抑えた低い声で呟いた。
「……やはり、このハーブの組み合わせは、自然のロジックから大きく逸脱している」
傍らで息を潜めていたジンが、枯葉のような黄褐色の瞳を細めて微かに眉を寄せる。
「……防腐の効果を持つベースノートは、確かに存在している。けれど、東のオストヴァルの湿り気を帯びた気候や、特有の澱んだ空気に長く晒されると……成分同士が内部で干渉し合い、効果を打ち消し合ってしまうように組まれているんだ」
ルカは銀縁の丸眼鏡を中指でそっと押し上げ、淡々と告げた。
「……数週間もすれば、これはただの『機能を持たない草の匂い』に変わると思う」
「機能が消える、だと?」
背後から、足音を忍ばせて戻ってきたテオの低い声が重なった。
表での情報収集を終え、合流した彼は、仕立ての良いジャケットの肩に冷たい風を纏いながら、険しい表情を浮かべていた。
「……薬師ギルド一派の連中は、これを確かな特効薬として反発貴族たちに担がせ、ヴァルター侯爵を追い落とすための切り札にするつもりだぞ。数週間でただの干し草になるような見掛け倒しの品を、なぜ……」
テオは腕を組み、人々の暮らしを弄ぶ底知れぬ陰謀の深さに、商人としての苛立ちを滲ませた。
「おい、ルカ。あのアンディ先生ほどの人が、なんでそんな重大な綻びのあるものを作ったんだ? ギルドの連中に脅されて、まともな調香ができなかったのか……?」
「わからない」
ルカはストールの中で、小さく首を振った。
「だけど、あの人がこんな間違いをするはずがないんだ……あるいは…環境の変化をトリガーにして、薬としての役割を『自ら破壊する』ように計算された、悪意ある時限式のロジック…」
ルカの脳裏に、かつて自分に香りの理を教えてくれた恩師の姿がよぎる。
鳥の巣のようにくしゃくしゃな髪と、実験汚れだらけのロングコート。好奇心に満ちた丸い目で植物の命を慈しみ、寸分の狂いもなく香りを重ねていたあの人が、どうしてこんなにも歪んだ、命の気配が抜け落ちた空洞のような調合を残したのか。
過激派に無理やり作らされた結果なのか。
あるいは、あの人自身が深い闇に堕ちてしまったのか。
答えの出ない深い疑念が、冷たい風と共にルカの胸の奥へと静かなしこりを残した。
そして、その底なしの疑念と、ハーブの香りを成分単位で分析し続けた極度の過集中が、ルカの脳の処理限界を唐突に超えさせた。
「ぅん……」
プツン、と目に見えない糸が切れたように、ルカは岩場の陰で力なくへたり込んでしまった。
「おいおい、またか」
ジンが愛用の木製パイプを取り出しながら苦笑する。
「たく、ここまで持ち堪えていたと思ったら、これだ。……ここじゃ目立つ。宿に戻ろう」
テオは短くため息をつくと、腑抜けてグダグダになったルカの脇の下に腕を差し込む。
「ほら、行くぞ」
と、ずるずると引きずり上げて体勢を変えジンに手伝ってもらって背負う。
「……テオ。君の歩幅、右足が数ミリずれてる……重心のロジックが非効率的だ……むにゃ」
「気絶してるくせに偉そうに評価するな! 落とすぞ!!」
ジンが声を殺して笑い出していた。
「くそぅ、結局こいつを運ぶはめになった」
ブツブツ文句を言いながら足早に宿場町へ向かうテオに、
「今度はお前だな。おつかれさん」
とジンがニヤニヤ笑いながらついていった。
***
宿の簡素な部屋に戻るなり、テオは壁に嵌め込まれた重い木製の窓枠に手をかけ、ガシャリと音を立てて大きく開け放った。 渓谷の冷たく澄んだ風が一気に流れ込み、ルカが肺に溜め込んでいた重い疑念の匂いを押し流していく。 そしてテオはすかさず、温室から持ち込んでいた『深煎り珈琲豆のサシェ』を、へたり込むルカの鼻先にグイと突きつけた。
「んぐぅっ」
強烈で香ばしいロースト香を吸い込み、ルカが目を白黒させながら現実に引き戻される。
とはいえエネルギー切れでぼんやりとしながらも、頭痛に耐えるようにこめかみを押さえているルカを丸椅子へと放り込むと、テオはすぐさま部屋の暖炉を利用して食事の準備に取り掛かった。
部屋に漂うのは、パチパチと香ばしく煎られた麦の匂いと、甘く爽やかな茴香の香りだ。
「ルカ、今夜は噛む必要もないぞ。とりあえず食え」
皿に盛られたのは、とろりと白いポタージュのような麦粥だった。
「煎りスペルト麦と干し茸のチーズ粥だ」
削ったハードチーズの皮と干し茸から出た旨味が、香ばしく煎られた麦のデンプンと溶け合い、深いコクを生み出している。ルカが小さく匙を口に運ぶと、熱い粥が喉を通ると同時に、茴香の甘い香気が鼻腔を撫でて抜けた。
痛むほどに研ぎ澄まされていた嗅覚と脳が、温かな香りの膜で優しく包み込まれていく。
「……茸の旨味と、チーズの塩気……それに、この種子の香り……」
「茴香の香気は、過剰に興奮した嗅覚神経を落ち着かせる作用があるんだろ?脳がブドウ糖を欲している時に、この麦粥は手っ取り早いからな」
旅先の食事でさえ、ひとまず温かいものを用意するテオのまめさ加減にジンが唸る。
「いやぁ、これもまた美味いな。旅にお前さんを連れて行くと疲れ知らずで動けそうだ。…まぁ、いろいろ叱られそうだから面倒くせーが。」
「面倒くさいは余計じゃないか?」
頭痛が治ってきたのか、ルカが笑いながらスプーンを皿と口を往復させた。
食事が終わり、ランプの火が静かに揺れる頃。
鞄の奥から這い出していたモカが、部屋に漂う麦とチーズの残り香と、先程までルカが抱え込んでいた焦燥のノイズを、
「すぅぅぅぅぅ」
と吸い込んだ。
空間が無臭化された後、モカはゲップ代わりに「コロン」と喉を鳴らし、床に一つの結晶を吐き出した。
外側は泥茶色に濁っているが、中心部は歪にひび割れており、どこか危うげな灰色の光を放っている結晶だった。ルカはそれを、ランプの灯にかざして静かに見つめた。
自然の理から外れた不完全な調合、すっぽりと抜け落ちた球体のパズル。
見えなくなってしまった恩師の不穏な影が、この歪な結晶の奥底で確かに呼吸をしている。
開け放たれた窓から流れ込んでくる空気と温かなチーズ粥の余韻に包まれながら。
真相の輪郭に触れた三人の旅路は、さらなる深淵に向けて、静かに次の一歩を踏み出そうとしていた。
次回からは第26話がスタートします。
恩師が残した調合は、数週間で自滅する「時限式の不完全なロジック」だった!?
処理落ちしたルカを引きずり、テオ特製の「煎り麦とチーズ粥」で体力を回復させた一行。
莫大な利権と奇病が渦巻く、東の国『オストヴァル公国』の現場へ……
物語がいよいよクライマックスへ向けて大きく動き出す、次の更新もお楽しみに!
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