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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第26話:慈愛の香水と、風の通る避難所【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

冬の重く垂れ込めた鉛色の空の下、乾いた風が荒々しい音を立てて丘陵地帯を吹き抜けていく。


西の渓谷を抜け、東の国オストヴァルとの国境沿いに広がるなだらかな荒野。

そこには、数え切れないほどの急ごしらえの白い天幕が、寒風にバタバタと身を縮めるようにして幾重にも連なっていた。 奇病の脅威から逃れるため、あるいは国境を越える前に足止めされた人々が集う『避難所』である。


これほど多くの人々が、十分な物資もないまま一つの場所に身を寄せ合えば、そこには必然的に、重く淀んだ空気が生じる。


凍える体を寄せ合うための密集した生活の匂い、洗うことのできない衣服から滲み出る埃っぽさ。そして何より、明日への希望を失いかけた人々が無意識に放つ、『不安』と『焦燥』という名の目に見えないノイズ。それらが分厚い層を成して、天幕の間にべったりと張り付くように滞留しているのが、遠目からでもはっきりと感じ取れた。


「……ひどく過酷な土壌だね」


荷馬車の大きな木製車輪の陰に身を隠し、ルカは少し跳ね気味の亜麻色の髪を風に揺らしながら、ぽつりと呟いた。


人々の抱える不安は、酸味を帯びた錆のような匂いとなって地表を這っている。先の見えない焦燥は、乾いた砂埃のように舞い上がり、健やかな呼吸の層を塞いでいく。植物の命が根を下ろすには、あまりにもノイズが多すぎる環境だった。


「風向きは北西。ここなら、避難所から流れてくる澱んだノイズを正面から被ることはない」


ルカの前に立ち、大柄なキャンバス地ジャケットの背中で彼を庇うようにしているジンが、空の雲の動きと風の匂いを見極めながら低く告げた。


「テオが荷物の引き渡しを終えるまで、お前はここで静かに息を潜めているんだ。直接あの中に入り込めば…わかってるよな」


「うん。もちろん、わかっているよ」


ルカは、目元から下を深く覆い隠した生成りの麻のストール越しに、くぐもった声で応えた。


留守を預かるリーゼが、他人の手垢や保管庫のノイズを一切残さないよう、無香の石鹸で丹念に洗い上げてくれた特別な布地。その無垢な香りに顔を埋めることで、ルカはようやく外の濁った空気を濾過し、脳の処理を過不足のない、凪いだ状態に保つことができていた。


それは彼が守るべき『隠密調香師』としての、無理のない心地よい境界線。


自分は表に立って人々を直接救う医療従事者ではない。

自然の理を編み上げ、それを必要とする者の手へと届けるための静かなシステムを、背後から支える存在に過ぎないのだ。


だからこそ、ルカは直接人混みの中へと踏み込むことはしない。ただジンの影に隠れながら、自らの調律した香りがこの過酷な環境でどのように機能するのかを、静かに見守るつもりだった。


少し離れた場所では、荷馬車の車輪がギシギシと乾いた土を踏みしめ、次々と所定の位置に停車していた。 先頭を進む馬車の幌には、歴史ある大手商会である『ランバート商会』の紋章が誇り高く刻まれている。 馬車から降り立ったテオは、上質な厚手の外套の襟を正し、周囲の状況を静かに見渡した。


「……予定通り、国境沿いの第三避難所に到着したな」


彼が各ギルドやランバート商会と粘り強い交渉を重ね、丁寧に構築してきた物流。

それが今、東の国のヴァルター侯爵が撒いた多様な対策の種の一つと噛み合い、病の最前線という土壌の上で、確かな実利として駆動を始めようとしていた。


馬車の荷台に積まれているのは、ルカが調香のロジックを監修し、他社の工房の生産ラインを使って量産化された『慈愛のヴェール』の木箱の山だった。


「荷下ろしを頼む。中身は繊細な液体だ。衝撃を与えないよう、互いに声を掛け合って慎重に運んでくれ」


テオが威圧感のない、しかし通りの通った落ち着いた声で御者たちに指示を出すと、木箱が次々と荷台から降ろされ、現地の役人たちが待つ受け入れ用の天幕へと運ばれていく。


冷たい風が、ルカの白衣の裾を小さく揺らす。


彼の手元から離れ、数え切れないほどの小瓶に詰められた植物たちの健やかな呼吸が、今まさに、澱んだ避難所の空気を書き換えようとしていた。







奇病と不安が渦巻く、東の国境「避難所」へ到着。

ルカが監修した『慈愛のヴェール』は、この過酷な現場でどう機能するのか?

リーゼの「無香ストール」に守られながら、ルカは静かに結果を見守る。

次回、天才調香師のロジックが、絶望の避難所に「一筋の風」を通す中編へ続きます!


***


最後までお読みいただきありがとうございます!

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明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

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