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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第24話:留守居の鞄と、赤黒い錆の結晶【後編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

馬車は西へと進み、やがて陽が沈みかける頃、渓谷の手前にある寂れた宿場町に到着した。案内された古びた宿の部屋は、長旅の疲れを癒やすには少しばかり薄暗く、床の板も歩くたびに微かに軋むような簡素な作りだった。


ランプの淡い光が、壁の染みと簡素な二台の木製ベッドを柔らかく照らし出している。

ジンが肩から重い革のバックパックを床に下ろし、テオがジャケットを脱いで椅子の背に掛け、ようやく一息つこうとした、その時だった。


「……テオ」


ベッドの傍らに立っていたルカが、ずり落ちそうになった銀縁の丸眼鏡を中指で押し上げながら、ひどく真面目な顔で静かに口を開いた。


「この部屋の枕の湿り気が、僕の安息に適していない。前の客が残した不快な湿気と生活の匂いが混じっているんだ。ひどく非合理的だから、鞄に入っているリーゼ特製の防香麻のカバーをかけてくれないか」


「自分でかけろ!」


テオの通りの通った怒鳴り声が、狭い部屋に盛大に響き渡った。


「あのな、これは命懸けの隠密旅なんだぞ! 街の中でお前の脳が処理落ちしないように、常に気を配って……もう俺の精神の泉はすっからかんなんだよ!」


「でも、君は支配人だろう。従業員の睡眠環境を整えるのは、工房としての持続可能な投資であって……」


「今すぐその口を閉じないと、今日の晩飯は黒パンの端っこだけにするぞ」


張り詰めていた不穏な空気を一瞬にして台無しにする、ルカのポンコツぶりとテオの悲鳴。 そのいつもの気の置けないやり取りを見て、ジンは枯葉のような黄褐色の瞳を細めて呆れたように笑いながら、ガタつく古い木の窓枠に浅黒い手をかけた。


「まあ待て。喧嘩する前に、まずは空気の入れ替えだ」


ジンが重い窓を押し開けると、西の渓谷から吹き下ろす冷たくて清冽な山風が、部屋の中へと一気に流れ込んできた。 それは、街の人間たちが発する複雑な思惑や欲望のノイズとは全く違う。

湿った豊かな土と、岩陰に群生する野生のシダ、そして名も知らぬ太古の樹木たちが放つ、深く力強い自然の呼吸だった。


「……ああ、良い風だ」


ルカは目を閉じ、亜麻色の髪を風に揺らしながら、その澄んだ空気を肺の底まで深く吸い込んだ。

過剰な情報で疲弊しきっていた彼の鼻と脳のフォーカスが、渓谷の自然の匂いによって、本来の穏やかな静けさへとリセットされていく。


「さて、腹ごしらえとするか」


テオが白シャツの袖をまくり上げ、持参した小さな携帯用の鉄鍋を部屋の暖炉にかけ、手早く温かい食事の用意を整え始めた。手慣れた手つきでナイフを滑らせ、自家製の干し肉を紙のように薄く削ぎ落としていく。断面から、熟成された深い油脂と塩の香りが立ち上る。


「旅の干し肉は硬くて塩辛いのが難点だけど……工夫次第で、最高のスープの素になるんだ」


テオは温まり始めた鉄鍋の底に、削りたての干し肉を投入した。

じわりと肉の脂が溶け出し、爆ぜる小さな音が部屋に響く。

すかさず、テオは懐から取り出した布包みを開いた。硝子の庭の温室で摘んできた、乾いたタイムとセージの葉だ。指先で細かく揉み潰しながら鍋へと散らすと、熱した肉脂と交じり合い、一瞬で部屋の古い埃っぽさを塗りつぶすような、清涼で爽やかな香気が広がった。


「ハーブの香りは、水ではなく『油』に溶ける。こうして最初に脂へ香りを移しておけば、肉の強い臭みが消えて、後味が軽くなる…」


鍋肌から煙が立ち上る絶妙なタイミングで、テオは汲み置きの水を一気に注ぎ入れた。

激しい蒸気とともに、琥珀色のスープが泡立つ。


煮立てることわずか数分。干し肉から溢れ出た旨味と塩分が、ハーブの香気を含んだ湯に完全に溶け出していた。最後にテオは、宿で出されたカチカチに硬い黒パンを手で小さくちぎり、鍋の中に惜しみなく放り込んだ。パンがスープを吸って柔らかく解け、とろりとスープ全体が馴染んでいく。

木の深皿に盛り付けられたそれは、湯気とともにハーブの爽やかさと肉の豊かなコクを香らせる、温かな一品へと生まれ変わっていた。


「さあ、冷めないうちに食おうぜ」


カリカリに乾いていたはずの干し肉の旨味が、トロトロに解けたパンのデンプンに抱かれて、濃厚なダシとなって口いっぱいに広がる。後味にはハーブの鋭い爽快感が抜け、しつこさが残らない。


「……美味いな。この硬い肉とパンが、どうしてこんな風になる」


ポツリと漏らしたジンの声には、食べ慣れた食材によるマジックを見せられたような驚きが混ざっていた。一方、ルカは深く静かにスープの表面を見つめ、静かに木さじを動かした。熱い湯気を吐き出し、一口含んで小さく目を細める。


「肉の脂を熱し、ハーブのシネオールとチモールを油分に溶かし込んでから水で伸ばす。……うん、理にかなっている。ふふっ。粗悪な酒を飲むより、よっぽどマシな鎮静剤になるね」


ルカの手が休まることはなく、二口目、三口目と匙が運ばれていく。

その様子を、テオは自分の皿を手に、ただ穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。

旅の目的を考えれば空気が重く沈むところだが、腹の底から温まり始めた小さな部屋の空気は、確かに、さっきよりも柔らかくほぐれていた。


***


食事が終わり、ランプの火が僅かに揺れる静かな夜。

ルカが自分の鞄から生成りの麻のストールを取り出そうとしたその時。


「ぽわっ」


と小さな鳴き声がこぼれた。

もぞもぞと鞄の奥から這い出してきたのは、アンゴラウサギのようにふかふかとした毛玉生物、モカだった。手足のない体を、お餅のように伸縮させて床へと着地する。 どうやら荷造りをしていた際、あの警戒心の強いリーゼの目すらも盗んで、こっそりと鞄の底に潜り込んでいたらしい。


「モカ!お前……どうりでルカの鞄がやけに重かったわけだ…」


テオが愕然とする中、モカはルカの足元へすり寄り、


「ぽわ」


と心配そうに鳴いた。

まるで、外界の過剰なノイズでルカの生態系が崩れることを予期して、そのエラーを吸い取るためについてきたかのようだった。モカは部屋の空気を鼻先で探るようにすると、渓谷の入り口に満ちる不穏な緊張感や、ルカたちが抱える静かな覚悟、そして先程までの食事の残り香を、


すぅぅぅぅぅっ


と長く、深く吸い込んだ。

そして、ゲップの代わりに喉の奥で「コロン」と澄んだ音を鳴らし、床に一つの結晶を吐き出した。

ルカは屈み込み、その結晶を指先でそっと拾い上げた。 ランプの灯りに透かしてみると、それは深い霧の奥を思わせる灰緑色をしており、その中心には、ほんの少しだけ赤黒い錆のような斑点が混じっていた。


「……美しいけれど、どこか悲しい色だね、モカ」


ルカは言葉少なに呟き、その結晶を静かに見つめながらモカを抱き上げた。

赤黒い錆の斑点は、これから彼らが向き合わなければならない過去の傷や、病魔の影を暗示しているかのようだった。


モカがすべてを吸い尽くしたことで、部屋の空気は朝霧の香りへとリセットされ、開け放たれた窓からは再び渓谷の瑞々しい風だけが流れ込んでくる。


ルカは結晶を握りしめ、窓の向こうに広がる西の渓谷の深い闇へと、静かな眼差しを向けた。


謎に包まれた恩師の現在と、歪んだ調香の意図。

過不足のない心地よい温室を離れた彼らの過酷な旅が、いよいよ本格的に幕を開けようとしていた。








次回からは第25話がスタートします。

命懸けの旅先で「枕が不快だ」と文句を言うルカと、ブチギレるテオ。

そんな空気を、絶品「干し肉とハーブのスープ」と、鞄から這い出たモカが温める。

――しかし、モカが吐き出した結晶には不気味な「赤黒い錆の斑点」が……。

いよいよ恩師の足跡が残る『西の渓谷の交易所』へ。

次の更新もお楽しみに!


***


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