第24話:留守居の鞄と、赤黒い錆の結晶【中編】
いつもお読みいただきありがとうございます!
街道を抜け、西へと向かうための乗り合い馬車が発着する宿場町へ足を踏み入れた途端。
ルカの世界は、濃密な匂いの色彩に塗り潰された。
辻馬車が行き交う蹄の音、怒鳴り合う商人たちの声。
しかし、ルカの感覚を最も鋭く殴りつけたのは、物理的な騒音ではなかった。
すれ違う人々から無防備に放たれる、剥き出しの『感情の匂い』だ。
今日の宿を探す旅人の、酸味を帯びた焦燥。
利益を求める商人の、油のように濁った欲望。
長い旅路を歩んできた者たちの、埃っぽい生活の垢。
そして、他者を出し抜こうとする、重く淀んだ思惑の残り香。
それらの匂いが、一切の法則性を持たない情報の塊となって、ルカの鼻腔へダイレクトに飛び込んでくる。植物たちの整然とした呼吸と、土の穏やかな香りを満たした『硝子の庭』の凪いだ空気に慣れていた彼の脳にとって、それは致命的な濁流だった。
(……ぐっ。覚悟はしていたけど……情報が、多すぎる)
ルカの特異な嗅覚は、それらの複雑な匂いを単なる「悪臭」としてやり過ごすことができない。
飛び込んできた情報のすべてを、無意識のうちに成分ごとに分析し、生態ロジックの階層へと分解しようと試みてしまうのだ。 瞬く間に脳の処理容量が限界を迎え、ルカの足元がグラリと揺れた。
視界が明滅し、呼吸のペースが乱れていく。
「ルカ!」
いち早く異変に気づいたテオが、倒れそうになる彼の肩をガシリと力強く支えた。
「……っ」
ルカは荒い息を吐きながら、ずり落ちそうになった銀縁の丸眼鏡を指で押し上げ、慌てて首元の麻のストールに顔を半分埋めた。リーゼが丁寧に洗い上げてくれたその無垢な布地の奥で、必死にノイズを遮断しようとする。
しかし、それだけでは脳の処理落ちは止まらない。
ルカはストール越しに、隣で自分を支えてくれているテオの胸元へとわずかに顔を近づけた。
そして、テーラードジャケットから微かに漂う『馴染んだ匂い』――今朝、厨房のかまどで煮込んでいた根菜スープの香草の残り香や、深煎り珈琲のロースト香といった、揺るぎない安心感のベースノート――を、アンカーにするように深く吸い込んだ。
(……焦点を、絞るんだ……。一つの、確かな輪郭に……)
テオから漂う、あの温室の過不足ない温度の記憶。
それを軸にすることで、ルカはようやく暴走しかけていた脳のフォーカスを強制的に固定し、情報の底なし沼から自律的に浮上することができた。
「大丈夫か、ルカ」
「……うん。少し、ノイズの波に呑まれかけただけだ。君のジャケットに染み付いた厨房の匂いのおかげで、システムが再起動したよ」
「なんだ…なんかあまり喜ばしくない再起動の方法だが、まぁよかった。……無理はするなよ」
思わず自分の肩元に鼻を寄せ、己の匂いを確認してしまうテオに気づいて、ルカはクスリと笑う余裕を見せた。ジンが素早く周囲の喧騒を遮るように彼らの前に立ち、手配してあった辻馬車の分厚い扉を開けた。
「この街の空気はお前の鼻には毒すぎるんだろ?さっさと乗り込むぞ」
テオとジンがルカの前後を固めるようにして、足早に馬車の車内へと滑り込む。
扉がガシャンと閉まり、外界の淀んだノイズがようやく一枚の壁の向こう側へと遮断されたのだった。
人の欲望、焦燥、思惑。
剥き出しの「感情の匂い」に脳が処理落ちを起こすルカ。
そんな彼を絶望のノイズから引き上げたのは、テオのジャケットに染み付いた「いつもの厨房の匂い」だった。
最高のバディの連携で馬車へ逃げ込んだ一行。
次回、西の宿でテオの絶品「サバイバル料理」と、まさかの「密航者」が登場!?
後編へ!
***
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし少しでも「面白い!」「続きが気になる」「お腹が空いた」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】(星)を押して応援していただけると嬉しいです!
皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。
明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!




