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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第24話:留守居の鞄と、赤黒い錆の結晶【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

冬の澄んだ陽光が、葉を落とした森の木々の間から斜めに差し込んでいる。


石造りの洋館の玄関。


ウォールナット材と上部の磨りガラスで仕切られたパーテーションの手前では、西の渓谷へ向けた遠征の準備が静かに、そして着々と整えられていた。


濃紺のワンピースに真っ白なエプロンを身につけたリーゼが、持ち手のある大きな革鞄を、テオとジンの前へ淡々と並べていく。鞄の中に用意されているのは、過酷な旅を耐え抜くための堅牢な防具や、特殊な魔術の道具などではない。そこにあるのは、ルカが普段から身につけている、生成りのコットンシャツや、洗い替えの清潔な白衣、肌触りの良い麻のストールといった、ごくありふれた生活の調度品だった。

しかし、その仕分けの精度は、ただの荷造りの域を遥かに超えていた。


「……荷物の分類と封入は、これで完了いたしました」


リーゼは鞄の真鍮製の留め金を静かに下ろし、灰黒色の髪を揺らして口を開いた。


「衣類はすべて無香の石鹸で丹念に洗い上げております。余計な保管臭や、宿のクローゼットの匂い、他人の手垢といったノイズが混ざらないよう、匂いを遮断する蝋引き紙で一つずつ包み、旅程で使用する順序に従って分類してあります」


鞄の中でかすかに擦れ合う、蝋引き紙の静かな音。


「……驚いたな。物理的な無臭状態を、これほど見事に構築するなんて。香りを重ねるより、ノイズを完全に遮断する方がずっと難しいロジックなのに」


ルカは鞄に顔を近づけ、満足げに丸眼鏡を押し上げた。


「ありがとう、リーゼ。君の強固な防御ロジックのおかげで、僕の脳の処理回路は外界でも正常に機能しそうだ」


リーゼはコクリと頷いた後、両手の指を腹の前で揃え、やがてきつく握り込んだ。


「……これ以上私が同行しても、温室の環境維持が疎かになり、理にかないません。私はここで、皆様が帰る場所を維持します。……道中、どうかお気をつけて」


深く頭を下げるリーゼに、テオは仕立ての良いテーラードジャケットの袖をまくりながら感心したように息を吐き、革鞄を持ち上げた。


「助かるよ、リーゼ。お前がいてくれて本当に心強い。俺たちが留守の間、温室の発光苔(エア・モス)の水やりや、天窓の換気のローテーションは、日誌の通りに頼むな」


「はい。滞りなく遂行いたします」


リーゼは短く頷き、それからほんの少しだけ視線を下げ、ぽつりと付け加えた。


「……それと、テオ様。背面に配置していただいた小豆色のクッションですが……安息時の姿勢が優しく保たれるため、より深く、心地よい光合成の時間を過ごせるようになりました」


それは、ただ事実を記録するだけの無機質な報告から、ほんの僅かだけはみ出した、彼女自身の『感想』だった。分厚い自衛の鎧の奥に、この硝子の庭に対するささやかな愛着と温もりが宿り始めている証である。


「そ、そうか」


テオは目を丸くし、少し照れくさそうに口元を綻ばせた。


「しっかり休めているなら何よりだけど……お前からそういう個人的な感想を聞くと、なんだか少し面食らうな」


テオは少しだけ照れ隠しのように頭を掻くと、真面目な顔に戻って指を立てた。


「いいか。光合成も大事だが、人間には物理的なエネルギー補給も必要だ。厨房の戸棚の二段目に、日持ちする焼き菓子と、モカ用のドライフルーツを多めに確保してある。脳が疲れたら、遠慮せずに糖分を摂れよ」


「……承知いたしました。エネルギー管理も怠らず行います」


緑褐色のキャンバス地ジャケットを着込んだジンが、そのやり取りを見てニヤリと笑い、自分の革製バックパックを大柄な肩に担ぎ直す。


「留守番の環境が快適なのはいいことだ。さあ、のんびりしていると山の風向きが変わっちまうぞ。行くぜ、ルカ」


うなずくルカは、リーゼが用意した麻のストールを首元にふんわりと巻き、少し跳ね気味の亜麻色の髪を揺らした。


その瞬間。


彼の脳裏を、あのペストマスクの『命を慈しまない、不気味に歪んだ香りの球体』の記憶が掠め、微かに背筋が凍りつく。しかし、すぐ右からはテオの『糊の効いたシャツの清潔な匂い』が、左からはジンの『深い森と土の逞しい匂い』が、彼を挟み込むようにして存在していた。


ルカは小さく深呼吸をしてノイズを振り払うと、銀縁の丸眼鏡の奥に静かな決意を宿し、硝子の庭の重い扉を開けて、西の渓谷へと続く外界へ足を踏み出した。







リーゼの完璧な「無臭パッキング」に守られ、いよいよ西の渓谷へ!

クッションの寝心地に個人的な感想を漏らすリーゼの、わずかな「心の微熱」が愛おしい出発の朝。

頼れる相棒と護衛に挟まれ、温室の主はついに過酷な外界へ足を踏み出す。

――しかし次回、宿場町でルカの特異な嗅覚を「最悪の濁流」が襲う!

中編へ続きます。


***


最後までお読みいただきありがとうございます!

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明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

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