第23話:最初の種と、鳥の嘴【後編】
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ランバート商会の担当者が去り、硝子の庭に再び深い静寂が戻った。
そのしんと張り詰めた空気の中、ルカは丸椅子から静かに立ち上がり、リビングの棚の片隅に置かれていた分厚い麻袋へと歩み寄った。中から慎重に取り出したのは、不気味な形をした黒い革製の『ペストマスク』である。 鳥の嘴のように長く突き出たその特異なフォルムは、伝染病の瘴気から身を守るために強い香料を詰め込む、古い医療器具の形だった。
ルカは、普段の植物に向ける饒舌さを完全に消し去って、温室に向かった。
これまで封印していたマスクを持ち出したルカを追って、テオもまた温室のテーブルについた。
植物達の呼吸が聞こえてきそうな静けさの中で、ルカはその長い嘴の曲線を、指先でゆっくりとなぞる。 そして、銀縁の丸眼鏡を中指でそっと押し上げると、嘴の先端の通気口に鼻を近づけ、深く息を吸い込んだ。
いつの間にかベンチに腰を下ろし、愛用の木製パイプをくゆらせていたジンが、枯葉のような黄褐色の瞳を微かに細めてルカを見つめていた。
「恩師の技術の痕跡は、確かにあるんだ。球体におさめる香りの層の組み方、これは紛れもなくあの人のものだ。けれど……ここには、命を慈しむ姿勢が決定的に欠けている。以前、話したよね」
ルカはマスクをテーブルに置き、テオとジンに向き直った。
「……どうしても気になるんだな」
ジンとテオが心配そうにルカの瞳の奥を探る。
この謎を孕んだマスクを生み出したのは、恩師アンディの技術。だが、そこには彼の『心』がない。誰かに利用されているか、あるいは何らかの理由で理性を失っているのか。
ルカは顔を上げ、パイプを咥えたシードハンターを真っ直ぐに見据えた。
「ジン。僕を、このマスクの出所である『西の渓谷の交易所』と『国境沿いの避難所』へ案内してほしい。このマスクの匂いの変数も、慈愛のヴェールが使われる現場も、僕の目と鼻で確かめたいんだ」
その重い決意の言葉に、テオは低い唸り声をあげていたが、低くくぐもった声で切り出した。
「……どうせ止めることはできないんだろ?俺の留守中に行き倒れられるのは御免だからな。いいよ」
断りの言葉を探していたジンが意外そうに目を見開く。
「だが、お前のその過敏すぎる嗅覚と、燃費の悪さを考えれば、王都の外に出ること自体が大きなリスクになり得る。行くなら、俺が旅のルールを決める」
テオは、工房を背負う者としての、そして幼馴染を守るための確かな目で、旅の条件を次々と突きつけた。
「一つ、長距離の移動や交渉などの『実動』は、すべて俺とジンがやる。お前は徹底して体力を温存しろ」
『夜鳴きシダ』の採取でジンに回収された前科が記憶に新しいルカは、素直にコクリと頷く。
「二つ、情報収集において、お前が直接会って匂いを嗅ぐ人間は『一日ニ人限定』だ。ただでさえ危険のある旅先で、ノイズで脳を焼き切られると厄介すぎる」
「二人…まぁ、人に会いたいわけじゃないから構わないよ」
これにもあっさりとルカは頷いた。
「三つ、今回の旅は基本『隠密』だ。工房の名前も、お前の調香師としての素性も伏せる」
テオの瞳に、鋭い光が宿る。
「俺たちは今回、疫病と得体の知れないマスクの情報を『探る側』だ。もしお前が影響力を持つ天才調香師だと認識されてしまったら、情報料として足元を見られるか、最悪の場合、拉致されて命の相場が跳ね上がる。……いいな、ただの薬売りの行商人として振る舞え」
それは、ルカの命と、彼らの心地よい日常を守り抜くための、現実的で理にかなった制約だった。 ルカは不満を言うこともなく、
「合理的な采配だね。その仕様で構わないよ」
と、頷いた。
その時、磨りガラスのパーテーションの脇で控えていたリーゼが、一歩前に出た。
「……現状を整理します。今回の遠征において、この温室を完全に無人にすることは、ランバート商会との契約上、甚大なセキュリティリスクを伴います」
リーゼは三人を見回して、自らのスタンスを端的に示した。
「ゆえに、私は同行しません。ここで、皆様の帰る場所を維持する職務を遂行します。……ただし、三人が外界のノイズに惑わされず任務に集中できるよう、持参する『防香の旅支度』――衣服の特殊洗浄から荷物の仕分けまでは、私が一切の妥協なく管理し、実行いたします」
それは彼女なりの、最大限の援護射撃の約束であった。
ジンがパイプの紫煙をゆっくりと吐き出し、
「ははっ、留守番が有能なのは助かるねえ」
と低く笑った。
ジンはキャンバス地のジャケットのポケットから古い地図を取り出してテーブルの上に広げた。
「それじゃあ、疫病の検問を避けながら西の渓谷へ抜けるルートを組み立てるとしようか」
男たちが地図を覗き込み、現実的な計画を練り始める中。
リーゼの目は、机の上に置かれた『ペストマスク』を静かに、そして鋭く見つめていた。
彼女の記憶の奥底で、かつて中央ギルドの記録係として勤務していた頃、埃を被った地下書庫で偶然目にした古い文書の断片が手繰り寄せられていく。
『――ある調香師の追放記録』。
その記録に記されていた技術の特徴と、目の前にあるペストマスク。
リーゼの胸の内で、それらが一つの『職務上の関心ごと』として繋がり、静かに青い火を灯し始めていた。もちろん、彼女がそれを今ここで口に出すことはない。今はただ、正確な情報を蓄積するだけだ。
「……というわけで、さっそく旅の準備に入りたいのだけれど」
旅の決意と覚悟が空間を満たし、物語がシリアスな頂点に達した、まさにその瞬間だった。
ルカが、何とも言えない不快そうな顔をして右足を動かした。
「テオ。僕の右の靴下がさっきから少しずり落ちていて、肌に触れる布の張力が非対称でひどく気持ちが悪い。直してくれないか」
「……は?」
地図の上で真剣にルートを引いていたテオのペンが、ピタリと止まった。
「いや、ほら、自分で屈むと脳に血が上って疲れるだろう? 今の僕はマスクの分析で脳のエネルギーを使い果たして、すっかり骨抜き状態なんだ。だから君が――」
「自分で上げろ!!」
テオの怒号が、硝子の庭に響き渡った。
「これから命懸けの隠密旅に出ようって時に、靴下のセッティングかよ! 緊張感というものをどこに置いてきたんだこのポンコツは!!」
テオが頭を抱えた。
ジンが肩を揺らして爆笑し、
「靴下引き上げ業務は契約外です」
とリーゼが真顔で拒否する。ルカは床にへたり込む。
「ひどいなぁ、生態の危機なのに」
と力なく呟いている。
「ああもう、やってられるか! 換気だ、換気!」
テオは怒りも露わに、温室の中央にある太い真鍮製のレバーを乱暴に引いた。
ガシャガシャ、と重みのある歯車が噛み合っていく音を立てて、天井のガラス窓が一斉に開き、森の新鮮な外気が勢いよく流れ込んでくる。 テオはすかさず、厨房から深煎り珈琲豆の入った小さなサシェをひったくると、へたり込むルカの鼻先にグイと突きつけた。
強烈なロースト香で強制的に嗅覚をリセットさせ、腑抜けたルカの脇の下に腕を差し込む。
「ほら、飯にするぞ。歩け」
温室からリビングへと、ルカをズルズルと引きずり出していった。
その日の昼食は、旅の前の活力を養うための、堅実で心温まるメニューだった。 かまどと繋がった温室の熱源を利用し、朝からじっくりと低温で火を通しておいた根菜のロースト。
そこに塩と少量の油だけを纏わせ、素材が持つ琥珀色の甘みを極限まで引き出している。 さらに、ジンが持ち込んだ野鳥の出汁をベースに、たっぷりの麦と新鮮なパセリを煮込んだ熱々のスープ。
四人はリビングの大きな丸テーブルを囲み、無駄な言葉を交わすことなく、ただ静かにスプーンを動かす。香ばしい根菜を噛み潰す音と、とろみとプチプチの食感が絡み合う麦のスープを心地よくすする音が、柔らかな光に包まれた空間に響く。
それは、これから過酷な旅が待ち受けていようとも揺らぐことのない、彼らの愛おしい、過不足のない温度の日常だった。足元で、スープの優しい匂いと、先程までの張り詰めた緊張感、そして旅立ちへの静かな熱意をすべて吸い込んだモカが、
すぅぅぅぅぅ
と長く息を吸い込み、ゲップの代わりに「コロン」と喉を鳴らした。
ぽわ、と口から吐き出された結晶が、磨き上げられた床に転がる。
ルカがスプーンを置き、その結晶を拾い上げた。
それは、東のオストヴァルで撒かれた種と、これから向かう西の渓谷の過酷さを暗示するかのような――微かに靄のかかった、深く、美しい青緑色の結晶だった。しかしその美しい青緑の奥深くには、微細な『黒い脈』のような不気味なノイズが、静かに這うように閉じ込められていた。
ルカはそれを、テーブルの上のランプの光に静かに透かす。
揺らめく青緑色の光の向こう側で、彼らを待つ未知の領域。恩師の影を追う緊張感に身震いしながらも、ルカは仲間に支えられている安心感に微かな笑みを浮かべていた。
モカが残り香のすべてを吸い尽くし「朝霧の香り」にリセットした空間に、開け放たれた天窓から森の瑞々しい香りがふわりと舞い込んできた。
次回からは第24話がスタートします。
恩師の謎を追うため、西の渓谷へ!
テオが突きつけた「3つの旅のルール」。
笑いと温かいスープで活力を養った一行ですが、モカの結晶には不気味な『黒い脈』が……。
いよいよ始まる命懸けの隠密旅。次の更新もお楽しみに!
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