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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第3話:悪意の連鎖と、澱んだ結晶【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

分厚い硝子屋根を無数に叩きつける激しい雨音が、今夜の『硝子の庭』を外界からすっぽりと切り離していた。


真鍮のパイプを伝って落ちる水滴の音さえも掻き消すような豪雨。温室の中は熱帯雨林の底に沈んだかのような重い湿気に満ちている。


夜行性の苔であるエア・モスが微かな燐光を放ちながら、懸命に空気の淀みを分解しようと明滅を繰り返していた。


「ふぅ…」


天才調香師のルカは、小さな染みのついた白衣を羽織ったまま長椅子に深く背を預け、生命活動の維持に必要最低限の呼吸だけを繰り返す、ただの有機物の塊と化していた。

やや跳ね気味の髪は湿気を含んで重く沈み、瞳は焦点が定まらないまま宙を漂っている。


「……ルカ。そんなところで苔むしてないで、少しは体を動かせ。床のタイルまでカビるだろうが」


濃い焦げ茶色の髪をきちんと整えたテオが、ジョウロを片手に、呆れたような声をかけてきた。プレスされた白シャツの袖を少し捲り上げた彼は、幼馴染のルカに対しては本音を隠さない。


「湿度は植物にとって恩恵だけれど、人間の脳機能には致命的なバグを引き起こすんだ。今の僕は水分を吸いすぎたスポンジと同じだよ。絞られたくなければ、このまま放置しておくのが最適解だね」


「あのな、お前が動かないせいで、さっきから俺が全部の鉢植えの様子を見て回ってるんだぞ……」


テオが胃の辺りを押さえながら、深々と溜息をついたその時だった。

玄関の鈴が荒々しく鳴り響き、軋む音を立てて扉が乱暴に押し開けられた。


冷たい雨風とともに室内に流れ込んできたのは、鼻を突くひどい悪臭だ。


「おい、ここの調香師はどこにいる!」


ズカズカと踏み込んできたのは、恰幅の良い中年の男だった。中央の貴族たちの間で流行している、豪奢なシルクの外套を身に纏っている。


しかし、雨に濡れた布地から揮発する高価な香水の匂いと、彼自身の放つ脂ぎった体臭が、湿度と共に強烈な不快感を放っていた。


男は、この地方都市の周辺で広大な農地を管理する地主だ。


中央の権力者たちに媚び、作物の種子を農民自ら管理することを禁止。種子や品種を独占しては、重い税を取り立てて私腹を肥やしている。


土に生きる素朴な小作人たちを「無知な土塊」と見下して、彼らの労力を搾取することを当然の権利のように考える輩だ。


テオは深い溜息をついた後、背筋を伸ばし、誠実な笑顔を貼り付ける。

そうして、スマートな支配人として玄関の入り口で騒ぎ立てる客を迎えに行った。


顔が見える距離になった途端、うっかりその悪臭に眉間の皺が寄りそうになるのをグッと堪える。


「ようこそ、支配人のテオ・ランバートでございます。ここでは立ち話になりますし、どうぞ奥の温室へお進み下さい」


ポケットの胃薬の紙包みをお守りのように指先で触りながら、ルカが卒倒しないことを祈る。


温室の扉に手をかけ、うんざりした顔のルカに頼むぞというサインのように笑みを送る。


口呼吸に切り替えたルカは、圧倒的な不快感を撒き散らす男を一瞥した後、淡々と挨拶した。


「調香師のルカです」


「私は地主のバルガスだ。お前が調香師か。ふん、薄汚れた白衣なんぞ纏いやがって」


バルガスが言葉を発するたびに、ルカの顔に能面が重ね付けされるようだった。ルカ本人に珈琲の匂い袋を持たせるのだったとテオは思った。


テオに勧められるのを待たずにドカッと腰掛けたバルガスは、忌々しさを隠すことなく踏ん反り返り、依頼を口にした。


「小作人どもを恐怖でひれ伏せさせる香りをよこせ」


バルガスは、尊大に言い放った。


「最近、あの愚か者どもが中央のやり方に不満を持ち始めているらしい。」


ルカは男の外套から滴り落ちる雨水がタイルを汚すのをただ見つめている。


「私が!この私がどれほど立場のある存在であり、逆らうことが恐ろしいか……奴らの骨の髄まで叩き込むために!拭い去れない恐怖の香りを作るんだ。金ならいくらでも出してやる」


男が口を開くたび、その口から放たれる濁った匂いが、瑞々しい温室の空気をじわじわと汚染していく。ルカの奥底で、静かに冷たい怒りが輪郭を持ち始めていた。


大地を耕し、土の恩恵に感謝しながら、命の源である種子を次世代へと大切に繋いでいく。それは、自然の摂理と共生する豊かで美しい営みだ。

小作人を単なる労働力として支配して自然の摂理を侵し、土地や人を己の欲望のためだけに貪るこの男の思考は、生命の連鎖に対する冒涜に他ならない。


植物と生態ロジックを重んじるルカにとって、この地主は自然界の循環を破壊する「システムエラー」として映っていった。


「ぽわ……っ」


足元で、かすかで苦しげな声がした。


モカだ。


普段は生成り色をした柔らかな毛並みが、今は男の澱んだ念に同調してしまい、痛ましい黒褐色に濁って不規則に明滅している。体が小刻みに震え、男から発散される淀んだ空気を吸い込むまいと、手足のない丸い身をきゅっと縮めていた。


「……極めてひどい不協和音」


ルカは静かな表情のまま、ずれた丸眼鏡を指で静かに押し上げると、ゆっくりと立ち上がって男に向き直った。


「香りの構成が、あまりにも乱れている。高価な香水や権力という『支配者』のトップノートで必死に虚飾を纏っているようだけれど、その揮発速度はひどく早い。あなたのミドルノートにこびりついているのは、『イソ吉草酸(きっそうさん)』。酸っぱい焦燥臭が、せっかくの高級香料を内側から台無しにしている」


「な!なんだそのイソなんとかとは!!台無しとは!」


男の顔色が変わる。だが、ルカは容赦なく、男の本質を解体し続ける。


「…最も深く根を張っているラストノート。極微量なら花の香りを引き立てるが、濃度を誤ればただの便所臭にしかならない『スカトール』だ。湿った泥の匂いの『ゲオスミン』と混ざり合ってあなたの体から噴き出している。…いつか足元をすくわれ、すべてを失うことへの恐怖でも抱えておられるのでは?」


バルガスの顔が、怒りと屈辱でどす黒く染め上がった。


「この、小賢しい若造が……! 誰に向かって口を利いているか分かっているのか!」

バルガスが激昂し、ルカの胸ぐらを掴もうと太い腕を乱暴に振り上げた。


その瞬間。 ドス、と鈍い音が響く。 男の太い腕は、ルカの胸ぐらに届く直前で、見えない壁に阻まれたかのように空中でぴたりと止められていた。


「……うちの大切な調香師に、その濁った手で触れるのはご遠慮いただきたい」


いつの間にかルカの前に立ち塞がっていたテオが、背筋の伸びた姿勢のまま静かに、しかし有無を言わさぬ力で男の腕を掴み止めていた。プレスされた白シャツの袖口から覗く彼の手には、微かな震えもない。普段の親しみやすい商人の顔はそこにはなく、端正な顔立ちには、土足で荒らされたことへの静かで深い怒りが滲み出ていた。


「ぃっ……!」


バルガスが顔を歪める。テオがバルガスの腕を無造作に弾き返すと、巨体がバランスを崩し尻をつく格好になった。


またその時、温室の奥――雨音が最も強く響く植物たちの暗がりから、もうひとつの影がゆっくりと進み出てきた。


「……夜分に騒々しいな。せっかくの瑞々しい雨の匂いまで、すっかり腐っちまう」


雨の滴る緑褐色のキャンバス地ジャケット。鼻をくすぐる、使い込まれた木製パイプの微かな煙の匂いと、山林の深い土の気配。西の山脈へ新たな種を求めて旅立っていたシードハンターのジンだった。


白髪交じりの髪を無造作に束ねた彼は、枯葉のような黄褐色の瞳から底知れない重圧を放ちながら男を見下ろした。長年、過酷な自然と対峙し、命のやり取りを潜り抜けてきた者だけが持つ、重く研ぎ澄まされた気配がその場を支配する。


「中央の威光を笠に着て、土を耕す者たちから次代の種を奪い、エサを奪い続ける害獣。……テメェみたいな奴は、最後は群れを追われ、飢えた獣に噛み殺されるのが自然の摂理だ」


ジンの低く渋みのある言葉が、温室の湿った空気を凍りつかせる。バルガスは声も出せず、ただ顔を引きつらせていた。


「……テオ、ジン。もういいよ」


ルカは少し跳ね気味の亜麻色の髪をかき上げ、ゆっくりと踵を返すと、温室の隣りにある調合室へと歩みを進めた。


「これ以上、モカと僕の鼻を汚染しないでほしい。……あなたが望む『本物の恐怖』、特別に処方するよ」





土の恩恵を奪う強欲な地主に、ルカの静かで冷たい怒りが静かに起動する。

天才調香師が処方する「本物の恐怖」とは一体……?

次回、反撃の中編へ続きます。



最後までお読みいただきありがとうございます!

もし少しでも「面白い!」「続きが気になる」「お腹が空いた」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】(星)を押して応援していただけると嬉しいです!

皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。

明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

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