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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第2話:癒やしの花と、青い結晶【後編】

硝子の庭 調香工房で紐解かれていく、依頼人たちの悩みや困りごと。お楽しみいただけたら幸いです。

ーー張り詰めた彼女の脳をクールダウンさせる、静かな香り。


瞬間。


カモミールとラベンダーの深く温かい安らぎの香りが、温室の空気を塗り替えるようにふわりと広がった。

アネットの肩がビクッと跳ねる。


トップノートからミドルノートへと変化する香りが、熱暴走を起こしていた彼女の脳を急速に冷却していく。

過労とプレッシャーで感情が白飛びし、すべてが色褪せて見えていた彼女の脳内で、香りの成分が静かな化学反応を起こし始めていた。


それはまるで、現像液が真っ白な印画紙から本来の鮮やかな色彩をゆっくりと浮かび上がらせていく過程のようだった。


カマズレンの消炎作用によって神経の炎症とノイズが物理的に鎮められていくと、彼女の脳裏に、ある記憶が瑞々しく蘇る。


初めて美しい絹や麻の布に触れた時の、滑らかな手触り。布が擦れる心地よい音。


そうした純粋な感覚だけが、鮮明に浮き上がってきたのだ。


幼い頃、あたたかな毛布に包まれて眠りについた夜の、何にも代えがたい安心感の記憶とともに。


「私……」


絹布を抱きしめていた手が、力なく解ける。


「本当は、もうずっと……休みたかった……。あたたかいお布団で、朝が来るまで、ただ眠りたかった……っ」


せきを切ったように泣き崩れる女性の背中を、イリスが


「よく頑張ってきたわね」


と優しく撫で続ける。


しゃくりあげ上下する背中にこもった力は、アネットがこれまで封じてきた身体の欲が解放される反動から生まれてくるのだろう。


もういい、もう蓋をしなくていい。


そうなの?そうだよ


繰り返し問うては腑に落ちていくようだ。


そして、イリスがふいに笑った。


「ふふっ。いいこと思いついちゃった。…ねえ。今までお客さんのためにばかり針を動かしてきたのでしょう?だったらご褒美に、自分が休むための寝着を、自分のために仕立ててみるのどうかしら?」


その言葉に、女性は弾かれたように顔を上げた。涙で潤んだ瞳が、手元にある真珠色の絹布を見つめ直す。


「休むための……私だけの、寝着……」


そっと布地を撫でる彼女の指先に、ふたたび温もりが戻っていく。


「……そうですね。ええ。…私は、この布の感触が好きで仕立て屋になったんだった……」


誰かの期待に応えるためでも、自己価値を証明するためでもない。ただ純粋に布を愛し、仕立てる喜び。それに立ち返った彼女の表情から、痛々しいほどに張り詰めた力は消え去っていた。


その様子を、深いダークブラウンの瞳で見つめながら、ルカは白衣のポケットからもう一つの小さなアトマイザー(香水吹き)を取り出した。


「今日の処方とは別に、寝室で使う安眠用のアトマイザーもおまけに渡しておく。空間を満たすためのものだよ。息詰まって眠りづらい時に吹くといい。」


アネットは差し出された丸いゴム製のポンプがついた硝子瓶を両手で受け取り瞳を輝かせた後、静かに目を閉じて胸に押し当てた。


ルカは淡々と、しかし静かな確信を持って香りの設計図を明かす。


「一晩たっぷりと眠って目覚めた時、トップやミドルの香りは揮発している。君の肌や髪に残るラストノートは…隠し味として忍ばせた、ベチバーの温かい土の匂いだ」


それは、目覚めの時に効力を発揮する時間差の処方だった。


「大地の香りが、植物から命をもらって糸を紡ぎ、布を織り形にするという仕立て屋の原点と、素材そのものの温かさを思い出させるトリガーになるはずだよ。他人の体裁ではなく、君自身の根を張るための香りだ」


相変わらず床に寝そべっていた時に乱れた髪のまま淡々と語る調香師の白衣には、洗い残された植物の染みが点々とついている。


その染みを見つめながら深く頷いたアネットの顔には、やはり相変わらず黒々とした隈が貼り付いているが、ラベンダーのような穏やかで落ち着いた光が瞳に宿っていた。


「…今日はこの香りに包まれながら……世界で一番心地よい、私だけの寝着の図案を、夢の中で探してきますね」


ほわりとカモミールの残り香をかき混ぜながら立ち上がると、アネットは深く頭を下げ、真珠色の絹布が入った籠を愛おしそうにそっと抱えて、温室を後にしていった。


扉が静かに閉まり、夕暮れの柔らかい光が温室をオレンジ色に染めていく。イリスはお茶を淹れに、慣れた足取りで厨房へ入っていった。


「……ラストノートまで設計通りに機能したなら、その先の感情にはもう興味はないな…」


すべてを解き明かし、調香という目的を果たした途端、ルカの中から急速にエネルギーが抜け落ちていく。

骨抜きになったようにその場にへたり込み、テラコッタタイルの床に再び同化しようとしたその時だった。


「なんだ、今すれ違ったのは客だったのか。…おい、ルカ。また床の染みになろうとしているな」


買い出し用の大きなバスケットを片手に提げたテオが、呆れたような声を出しながらルカの前に立ちはだかった。

プレスされた白シャツの袖を少しだけ捲り上げた彼は、背筋をぴんと伸ばしたまま、ルカの鼻先に深煎り珈琲豆の入った小さな麻袋を遠慮なく突きつける。


「うおっ、強烈なロースト臭……! 脳髄を直撃だ……」


「こうでもしなきゃ、お前の意識は現実の世界に帰ってこないんだろう。」


テオはブツブツ呟きながら、真鍮のレバーを引き、歯車を静かに回した。 ガチ、と心地よい金属音が響き、天窓の換気システムが作動する。 温室内の空気がゆっくりと動き出した。


「ほら、立て」


テオはいつものように、腑抜けたルカの脇を抱え、ズルズルと温室からリビングへと引きずり出していく。


「やれやれ。俺がいない間に接客をこなすなんて。…大丈夫だったのか?不安しかないぞ」


ルカを安楽椅子に放り込み、テオがカツカツと足音をたてて厨房に入ると、イリスが緩やかに波打つ漆黒の髪を揺らして振り返った。


「おかえりなさい、テオくん。お留守番中、あなたの天才調香師はちゃんとお仕事していたわよ」


クスクスと笑うイリスに耳の裏を赤くさせながらテオは長いギャルソンエプロンを巻く。


「えっ、あ…ありがとう。なのか?そうだ、今日は飯食って行ってくれ」


照れを隠すように手際よくフライパンを握り、蕎麦粉の生地をジュウと心地よい音を立てて香ばしく焼き上げる。

薄い縁がパリパリと焼けたそばから、その上に熱々の煮込みがたっぷりと乗せられた。


長時間の低温調理という時間の魔法をかけられた猪肉は、繊維がホロホロと崩れるほど柔らかく、農家と物々交換した規格外の玉ねぎや人参はすっかり透き通って、艶やかなソースに溶け込んでいる。


そして、仕上げの十秒。

テオは食べる直前、温室で摘み取ったばかりの新鮮なタイムとパセリを惜しげもなく大量に散らし、木製のミルで粗挽きの黒胡椒をガリッと挽いた。


瞬間、野性味のある肉の旨味に、弾けるようなスパイスと青々しい香草の香りが絡み合い、食欲を刺激する。


「まあ、素敵。ちょうど私もお茶を淹れたところなのよ。ブルームの特製ブレンド、『ブルームグレイ』。ベルガモットの華やかな柑橘の香りが、テオくんのお料理の風味をより豊かに引き立ててくれるはずだわ」


イリスが艶やかな所作で、温めておいた白磁のティーカップに琥珀色の紅茶を注ぐ。


「あ、ありがとう、イリス。その、俺の料理に合わせてお茶を選んでもらえるなんて……光栄、です」


「ふふふ。元からこれを淹れるつもりだったから、丁度よかったのよ」


思わぬイリスの存在はスマートな支配人の佇まいを霧散させる。テオは耳の先まで真っ赤にして、首の後ろを落ち着かなげに掻いた。


三人はフォークを手に取り、焼き立てのガレットにナイフを入れる。


パリッ、とも、もちっとした食感が交互に訪れ、ホロホロの猪肉の旨味とハーブの香りが、口いっぱいに広がる。


ルカの使い果たした脳のエネルギーもゆっくりと満たされていった。


紅茶の心地よい渋みを味わいながら、イリスがふと微笑む。


「自分だけの寝巻き、素敵よね」


ガレットを頬張っていたルカが、丸眼鏡の奥の瞳を少しだけ輝かせて反応する。


「僕も欲しいな。僕だけの寝巻き」


すかさず、テオが呆れたようにため息をついた。


「なんだか知らんが、床で寝るやつに寝巻きなんぞ誂えん。まずはベッドで眠る努力から始めろ」


ルカの壊滅的な生活能力を突いた容赦ないツッコミに、イリスが楽しげにくすくす笑う。

テオの小言さえも、この場所ではどこか温かい。


賑やかで、不器用で、ひどく人間らしい食卓。

緻密に設計された調香とは裏腹な、そこにあるものがほっこりと馴染みあっていく時間にテオも一日の疲れが洗い流されていく。


食事が終わり、団らんの余韻がテーブルを包んだ頃。


彼らの足元から、生成色の毛玉が


「ぽわぁ……」


と小さく声を漏らした。


モカがリビングの床を弾むように移動し、空間に残された食事の香ばしさ、そして先ほどのアネットが残していった『焦燥と悲しみ』の残り香を


「すぅぅぅ……」


と一息に吸い込んでいく。

空間が完全に無臭にリセットされたその瞬間、モカはゲップの代わりに、愛らしく喉を鳴らした。


――コロン。


床の上を転がったのは、濁りのない澄んだサファイアブルーの美しい結晶だった。


それは、あの仕立て屋のアネットが最後に流した、すべてのわだかまりを洗い流すような浄化の涙の元になったラベンダーを凝縮したような色彩だった。


「お、綺麗な色だな」


テオが転がった結晶をそっと拾い上げ保管用の瓶に落とす。


温室とリビングの空気は、瑞々しい朝露の香りへと心地よく塗り替えられていた。 張り詰めた一日の終わりを告げる、静かな夜の香りが『硝子の庭』を優しく包み込む。


後日、たっぷりと休息を取り本来の輝きを取り戻したアネット。自分自身のために仕立てた安眠寝着が密かな評判になり、王都の婦人たちの間で静かに売れ続けているというのは、また別の話だ。


――この穏やかな『硝子の庭』の扉を、胸焼けがするほど豪奢な香水を纏った恰幅の良い地主が無作法に叩くのは、2週間ほど経った日のことだった。






次回からは第3話がスタートします。

平和な温室に持ち込まれる、新たな不協和音。

次の更新もお楽しみに!



本日もご来店ありがとうございました!

もしこのお話を楽しんでいただけましたら、下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、モカが飛び跳ねて喜びます(作者のモチベーションが爆上がりします)!

ブックマーク登録も、ぜひよろしくお願いいたします。


毎日12:10、20:10に更新です。


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