第22話:行き過ぎた鎧と、微熱のリネン【後編】
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それから一時間後。
王都グランヴェルでの仕事を終えたテオが、調印文書を手に帰還した。意気揚々と扉を開けた彼は、温室に足を踏み入れた途端に呆れたようなため息をついた。
「……半日、目を離しただけで、どうしてまた水分を失った葉っぱみたいになっているんだ」
ベンチの上では、ハインツの淀みきった悪臭に当てられたルカが、出荷を待つ乾燥ハーブのように横たわっていた。
テオは真鍮のレバーを引き下げる。
強制換気のための天窓が開き、冬の澄んだ冷気が温室へ流れ込んだ。室内に滞留していた不快な悪臭が、外の風にさらわれて薄れ、やがて完全に浄化されていく。
「ほら、再起動しろ。温かいものを作ってやる」
テオがルカの鼻先に珈琲豆の入った小袋を押しつける。両脇を抱え、ズルズルとリビングに引きずって行き、安楽椅子に放り出した。
続いて厨房から漂ってきたのは、深煎り珈琲の香ばしい香りと、濃厚な煮込み料理の匂い。
テオがリビングの円卓に運んできたのは、赤ワインで柔らかく煮込まれた牛肉のブラウンシチューと、絶妙に温められたバゲットだった。
タイムとローリエ、そして微かな黒胡椒の香りが、深みのあるベースノートとして食欲を刺激する。
「……見事な香りの調和だね。塞がれていた呼吸が、ようやく肺の最深部まで届いたよ」
ルカは身を起こし、静かに円卓についた。
「カルダモンの成分が効いてて、冷えた身体に染み渡るな」
シードハンターのジンも香辛料の効き具合いに感心しながらスプーンを進める。 リーゼもまた、自分の席にカッチリと座り、隙のない所作でシチューを口に運んでいた。
テオはシチューの出来に満足しながら、ふとルカに向かって問いかけた。
「そういえば、さっきジンから聞いたぞ。お前、リーゼがいつも使ってる日向のベンチに、もっと柔らかいクッションを置けって言ったらしいな。……どういうことだ?」
ルカはちぎったバゲットを深い色のソースへ浸し、少しの間を置いてから口を開いた。
「……言葉の通りだよ。リーゼは今、君から引き継いだ仕事の合間に、あのベンチで光合成を行っているだろう」
「ああ、あの休憩な」
口を半開きにして微動だにしなくなるリーゼの姿を思い浮かべてテオは苦笑いする。
「リーゼは、グランヴェルの薬事局資材調達部で、海千山千の猛者達が放出し続けるノイズに囲まれていた上に、それを言語化し、ひたすら刻み続ける仕事をしていた」
『王都の記録係』以上の情報は、今日明かされたばかりではなかったのか。
テオの口元にピリっと力が籠る。
「僕は今日その一人に会っただけで、処理落ちの目にあったというのに」
リーゼは相変わらず淡々とパンを口に運び、スプーンを持ち直しシチューを掬い上げている。
「リーゼは過剰なノイズから自らを守るために、分厚い『行き過ぎた鎧』を纏っている状態なんだ。暴言という外部要因から身を守るだけじゃない。自らの感情が湧き起こる以前に鎧という境界線を設けて、出力は必要最低限に絞っている…」
「そいつは、とてつもないエネルギーが必要だな」
ジンの言葉にルカが頷く。
「だから、光合成の質を上げる環境があってもいいかと思って」
正確にスプーンを動かしていたリーゼの手が、ほんのわずかに止まった。
ルカは、彼女の抱える孤独や生き抜くための防衛本能さえも、自然の理や動植物の営みとして静かに読み解いていたのだ。
「お前……」
テオもシチューを掬う手を止めて、眉をひそめた。
「そんな大事なことに気づいてたなら、なんで早く俺に教えないんだよ。従業員の環境を整えるのも、俺の仕事だぞ」
「……調香の依頼ではないからね」
ルカは悪びれることもなく銀縁の丸眼鏡を中指で押し上げた。
「それに、彼女は自らの葉を広げて、自律的なロジックで光を浴びようとしている」
ジンがニヤリと皮肉な笑みを浮かべて深く頷く。
「生態系の営みに安易に手を差し伸べるのは個の生存戦略への侵害になり得る、ってところか。耳が痛いな」
ルカの不器用に見えるリーゼへの敬意は、生態系における種の生存戦略を重んじるジンに深く響いたようだ。
3人のやり取りを黙って聞いていたリーゼは、少しだけ目を見張った。
ルカは、自分の『行き過ぎた鎧』を非効率だと無理に剥がそうとはしない。
鎧を着たまま生きていることをロジックとして肯定し、その上でエネルギーを保てるよう、環境の調整だけをしてくれようとしていたのだ。リーゼは懐から小さな帳簿を取り出した。
「……元・グランヴェル薬事局記録係のフォーマットにて、現在のデータを『記録』します」
リーゼの静かな声が、リビングに響く。
リーゼは万年筆の先をほんの一瞬だけ迷わせた後、ページの一番上に『行き過ぎた鎧と、光合成の最適化について』と書き記した。
「『ルカ様の言語は非効率的。しかし私の生存戦略を肯定の上で環境を憂慮。テオ様は、従業員の環境を整えるのが仕事と認識、ジン様は耳が痛い』。……以上、個人的な記録、終了です」
「おい、以上、じゃねーだろ!変な記録を残すな」
テオが声を上げ、ジンが額に手を当てているが、リーゼは意に介さず帳簿を丁寧に懐にしまった。
リーゼから漂っていた『乾き切った洗い立てのリネン』の匂いの底に、 日向でふっくらと干されたような、『1割の微熱』が確かに灯り始めていることを鼻腔で確認したルカは、満足そうに目を閉じた。
リーゼの「行き過ぎた鎧」を無理に剥がすのではなく、生存戦略として肯定するルカ。
「クッションを置いて、光合成の質を上げればいい」 不器用で理屈っぽい、けれど温かいその優しさに、リーゼの香りに『微熱』が灯る。
――しかし、この美しく温かな平熱は、テオの持ち帰った「最悪の報告」で破られる。
エピローグへ!
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