第21話:次の幕を上げるローションと、女王の年輪【エピローグ】
いつもお読みいただきありがとうございます!
深紫色の馬車が冬の森の奥へと消えていくのを見送った後。
扉を閉めたテオが、ふぅ、と深く長い息を吐き出した。
「……王都の大物女優に納得して帰ってもらえたとなれば、いよいよ本格的に委託製造の需要が爆発するよな。ランバート商会との正式な契約も各ギルドとの手打ちも済んだことだし……」
テオは腕を組み、ルカとリーゼに向かって、大真面目な顔で宣言した。
「俺は今日から、この庭を本格的に回すための『統括』に移行する。温室内の物理的な雑務はリーゼに一任し、俺はよりマクロな視点でこの工房全体を管理する男になる」
ドヤ顔で言い放った「頼れる相棒」に対し、ルカは丸眼鏡の奥の瞳をぱちぱちと瞬かせ、淡々とした声で指摘した。
「テオ。君のマクロな視座は素晴らしいが、ミクロな部分の物理的エラーが完全に放置されている。……ベストの三番目のボタンが掛け違っているよ」
「……はっ!?」
テオが慌てて胸元を見ると、確かにベストのボタンが一つずれ、上質な生地が不格好に引き攣っていた。先ほどまで大女優を相手に完璧な環境管理者を気取っていたというのに、これでは台無しである。
「お前っ、そういう致命的なエラーは大女優が帰る前に言えよ!!」
「言おうとしたけれど、君が『俺に任せろ』という顔で胸を張っていたし、何より先ほどのツキノワグマの照れ隠しで良い和音が生まれていたからね。ノイズを立てないよう、空気を読んで黙っていたんだ」
ルカは「どうだい?」と言わんばかりに得意げに胸を張り、銀縁の丸眼鏡を中指でクイッと押し上げた。
「うふふ、僕の社会的な処理回路もなかなか見事にアップデートされているでしょう? 褒めてくれてもいいよ」
「どこがだバカ!!」
テオは顔を真っ赤にしてルカの額を小突くと、壁際の真鍮のレバーを半ばヤケクソ気味に引き下げた。
ギギギ、と重厚な音を立てて天窓が開き、冬の冷たい空気が流れ込んでくる。温室を満たしていた「気高い女王の薔薇の香り」と「ポンコツ調香師の理屈っぽいノイズ」が、一気に外へと押し流されていく。いつもの強制的な環境リセットだった。
「クソッ、夜食だ! 今日は甘いもので強制的に糖分を補給してやる!」
テオが腕まくりをして厨房へ向かい、手早く準備を整えた。
リビングの円卓の上に並べられたのは、温め直されたサクサクのスコーン。ローズマリーの爽やかな香りが練り込まれた生地に、テオ特製の『ほろ苦いキャラメルソース』がたっぷりと添えられている。
ルカの淹れた、イリスの店の深煎り珈琲の香りが、温室に心地よく満ちていく。
ローズマリーの青々しい香りと、大人びたキャラメルの苦味。
「……見事な和音だ。甘く包み込むマクロなキャラメルの視座と、生地の隅々まで計算されたミクロなローズマリーの配置……君の料理には、ベストのボタンのような致命的な構造エラーがないよね」
「うるせえ、黙って食え」
ベンチの下で息を潜めていた毛玉生物のモカが、「ぽわっ」と鳴きながら姿を現した。
モカは、大女優エレノアが残していった『深く気高い深紅の薔薇の残り香』と、彼女が手放した『焦燥の澱』を、
すぅぅぅぅぅっ…
と吸い込んでいく。 そして、満ち足りたようにお腹を膨らませて目を細めると、喉の奥で「コロン」と澄んだ音を鳴らした。
ぽとん。
床に転がり落ちたのは、目を奪われるほど美しい結晶だった。
それは単一の色ではなく、明るい真紅から、黒みを帯びた深いワインレッドまで、長い時間をかけて幾重にも重なり合った『年輪』を持つ結晶だった。 単調な若さの輝きとは違う、時間をかけて熟成した者にしか放てない、複雑で奥深いグラデーションのロジックがそこに宿っていた。
「……美しいね。彼女が重ねてきた時間という名の年輪が、最も豊かな和音を響かせている結晶だ」
ルカはその深紅の結晶を指先で拾い上げ、ランプの温かい光に透かして静かに目を細めた。
『硝子の庭』の生態系は、今日も正常に、そして美しく機能している。 彼らが築き上げた防壁の中で、過不足のない穏やかな時間が流れていた。
――しかし。
その頃、王都グランヴェルの中心部にある『薬師ギルド』の薄暗い執務室では、一つの悪意が黒く濁ったノイズを上げていた。
「……何だと? あの森の奥の温室のガキどもが、素材ギルドや流通ギルドとも契約を結んだだと……!?」
薬師ギルドの処方管理室長ハインツ。
かつて王都グランヴェルの役所に在籍していたリーゼの元上司であり、今の薬師ギルドに天下りした人物だ。他者の成果を搾取し、肥え太ってきた男が、苛立ちに任せて机を叩き割らんばかりに殴りつけた。
「ふざけるな。どこの馬の骨とも知れん小僧が、我々を通さずに市場を独占するなど許されるはずがない。……あの忌々しい『慈愛のヴェール』とかいう香水のレシピ、何としてでも奪取して、奴らを地の底へ引き摺り下ろしてやる!」
ハインツの濁りきった瞳に、醜い強欲という名のエラーが黒く燃え上がる。
ルカとテオが組み上げた防壁が完成に近づくにつれ、その価値に群がろうとする外敵の悪意も膨れ上がっていた。
女王の余韻に浸る静謐な温室へ向け、容赦のない濁った足音が、すぐそこまで迫りつつあった。
次回からは第22話がスタートします。
テオの致命的なエラー(ボタン掛け違え)で笑い合う、過不足のない平熱の夜。
――しかしその裏で、リーゼの元上司である薬師ギルドの室長ハインツが動き出す!
強欲にまみれた外敵の足音が迫る中、テオの築いた「防壁」は機能するのか!?
波乱必至の次の更新もお楽しみに!
***
本日もご来店ありがとうございました!
もしこのお話を楽しんでいただけましたら、下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、モカが飛び跳ねて喜びます(作者のモチベーションが爆上がりします)!
ブックマーク登録も、ぜひよろしくお願いいたします。




