第20話:夜鳴きの石垣と、最初の境界線【後編】
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厚い落ち葉を踏みしめるくぐもった音が、凍てつくような冬の森に吸い込まれていく。
シードハンターであるジンの広く頼もしい背中を追いかけ、ルカは浅い息を吐きながら獣道を進んでいた。
日頃、温室の完全に制御された環境で生きているルカにとって、冬を目前に控えた森の冷気は、肺の粘膜を薄い氷の刃で撫でられるように鋭く、物理的な痛みを伴う。
しかし、その足取りに迷いはなかった。
香りの階層を完璧に統べるための『絶対的な保留剤』を自らの手で採取するという、調香師としての確固たるロジックが、彼の背筋をピンと支えていた。
「……着いたぜ。ここだ」
ジンが足を止め、顎で前方を示す。
そこは、鬱蒼と生い茂る常緑樹の枝葉によって太陽の光が遮断された、森の最深部。かつて木こりたちが使っていたであろう、古い炭焼き小屋の跡地だった。
崩れかけた小屋の残骸からは、長い年月を経て土へと還りゆく朽ち木と、雨水を含んで発酵した腐葉土の重厚なベースノートが立ち昇っている。
そのさらに奥、まるで外界の光を拒絶するようにそびえ立つ、湿った黒い石垣に、それは在った。
「あぁ……」
ルカの口から、白く細い吐息が漏れる。
黒曜石のように濡れそぼった石垣の表面を這うように、あの少年フィンがもたらした『星屑ゴケ』が、うっすらと青白い燐光のようなものを放ちながら群生していた。
そして、その苔の絨毯が途切れる、石垣の最も深い暗がりの亀裂。 そこに、まるで大地の静脈が外へと滲み出したかのような、深く、濃い青緑色をした羊歯が、ひっそりと葉を広げていた。
幻の原種、『夜鳴きシダ』の親株である。
ひゅぅぅぅぅ…
と 谷底から吹き上げる冷たい隙間風が、石垣の亀裂を通り抜けた。その瞬間、夜鳴きシダの細長く硬質な葉同士が微かに擦れ合った。
「きぃぃ……」
まるで遠くで赤子が泣いているような、あるいは夜の鳥が細く啼いているような、特異な音色が響いた。 その哀切で美しい自然の物理現象に、ジンとルカは息を呑み、瞳に深い敬愛の光を宿した。
ルカは白衣の裾が泥水で変色するのも、外套が重く泥水を吸うことも厭わず、石垣に這いつくばるようにしてルーペを覗き込んでいる。人間の放つ感情のノイズには白目を剥いて倒れるくせに、自然が織りなす極限の環境下では、一切の不快感を感じていないようだ。
「……素晴らしい。この圧倒的な湿度が、あの特殊なベースノートを生み出す土壌になっていたのか。根茎の太さも申し分ない……」
泥だらけになってシダの根を愛でるルカの背中を見下ろしながら、ジンは呆れたように大きなため息をつき、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。
(……ああ、やっぱり間違いない。こいつのネジの外れっぷり、あの『イカれた研究者』そっくりだ)
ジンの脳裏に、かつてどんな沼地へも笑いながら突っ込んでいった男の背中がフラッシュバックする。
温室に引きこもるひ弱な青年の面影は、今のルカにはない。そこにあるのは、香りの理を求める、『本物のフィールドワーカー』の凄みだけだった。ジンは呆れと深い感嘆を交えて、無意識のうちに口角を上げていた。
そして。
ルカは薄い硝子細工に触れるかのように、震える指先でその青緑色の葉に触れた。
「……奇跡は、こんな深い暗がりの中で、誰の目にも触れず、静かに呼吸のサイクルを続けていたんだね」
ルカの紡ぐ声は、瞳の異様な光に反して、どこまでも静かで、自然の生態系への深い畏敬の念に満ちていた。彼は目を閉じ、シダの根元から立ち昇る、複雑で冷涼な香りの階層を、自らの内側にゆっくりと取り込んでいく。
「…すぅぅ……はぁ…」
ルカはゆっくりと目を開き、愛おしむように根茎の周りの土を、持参したナイフでそっと掘り起こし始めた。対象の細胞組織を傷つけない、熟練の職人の手つきだった。
「これさえあれば、理論上完璧だ。他所の不慣れな職人が、ノイズの多い環境で調香しようとも……この冷たい夜の香りが、絶対的な杭(保留剤)になる」
ジンは高揚した息を押し殺し、黙って深く頷いていた。
***
時を同じくして。
街の喧騒の中では、テオが素材ギルドからベースとなる溶剤の優先枠を分捕り、流通ギルドには東の国オストヴァル公国への専用定期便を約束させていた。
さらには一番厄介な薬師ギルドの縄張りを躱すための政治的な手打ちを行い、庭を守るための『社会的な外壁』を構築している。
二人は遠く離れた場所にいながらも、互いの領域で完璧な背中合わせの戦いを繰り広げていたのだ。
「よし。……少し、袋を持つのを手伝ってくれるかい、ジン」
親株の根本を辿り、側根の在処を慎重に確かめたルカは、もう一度深く息を吸い込む。
「おう。だが、お前、顔色が真っ白だぞ。やっぱり無理しやがって……」
「ふふっ…問題ないよ」
薄暗い炭焼き小屋の跡地。
夜鳴きシダの奏でる微かな葉擦れの音と、静寂の森の冷気が包み込む中。 天才調香師は、香りの階層を繋ぎ止めるための、冷たくも美しい奇跡の欠片を、ついに自らの手で拾い上げたのだった。
街のギルドという狸たちを相手に、完璧な社会的外壁を構築するテオ。
一方ルカは、圧倒的な自然の神秘「夜鳴きシダ」を前に、調香師としてのロジックの結晶を手にする。
離れていても相棒。
しかし、体力を限界まで使い果たしたルカの運命は……!? 次回、感動の帰還と、リーゼの容赦ない「洗浄プロセス」が火を噴くエピローグ編へ




