第20話:夜鳴きの石垣と、最初の境界線【中編】
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「……本当に、本当に見つけたの?」
ルカの声は平静を保とうとしていたが、その語尾には微かな震え――純粋な探求という名の熱量――が混ざっていた。ルカの放つ香りのトップノートから、隠しきれない高揚感を示す、揮発性の高いカルダモンのようなスパイスが立ち昇り始める。
「ああ。間違いない」
ジンは分厚い革の手袋を外し、懐から一枚の古びた羊皮紙の地図を取り出してテーブルに広げた。
「あの小僧の歩幅と、靴に付着していた特有の粘土質の匂い。それと、服に引っかかっていた棘のある野バラの分布域……それらを、森へと続く獣道から逆算して絞り込んでいった」
ジンは人差し指と中指を、フィンの足取りを描くように交差させた。
「行き着いたのは、森の最奥にある『古い炭焼き小屋の跡地』だ」
ジンの太い指先が、地図の空白地帯に描かれた、小さな黒い×印をトントンと叩く。
「そこは四方を険しい岩壁に囲まれていて、昼間でも日がほとんど差さねえ暗がりだ。小屋の裏手にある湿った石垣に、小僧が持ってきた『星屑ゴケ』が、びっしりと群生していた」
「……それから?」
ルカが息を呑む。
「その苔の真上。石垣の一番暗くて、冷たい水滴が常に滴り落ちている深い隙間にさ……お前が俺に描いて見せてくれた、あの細長い葉っぱ、見たこともねえ不気味なシダが、ひっそりと生えとったわ」
ジンの言葉が、静かな温室の空気を震わせた。
『夜鳴きシダ』の親株。
それは、先ほど書き出した最重要課題ーー他工房での委託製造に向けて、喉から手が出るほど手に入れたい素材だった。
他所の不慣れな職人たちが、環境ノイズの多い雑多な工房で『慈愛のヴェール』を大量生産する。どんなにテオがタフな交渉で「監修権」を勝ち取ってきたとしても、ルカ自身がすべての釜の温度や抽出時間を直接管理できるわけではない。少しの環境のブレが、病魔を退ける繊細な香りの階層を脆く崩してしまう危険性があった。
だからこそ、そのすべてのブレを物理的にねじ伏せ、香りのピラミッドを底辺から強固に繋ぎ止めるための、絶対的な重石として「特別な保留剤」が必要だったのだ。
そして、その役割を完璧に果たせるのは、深い森の暗がりで冷気を蓄え続ける『夜鳴きシダ』の根茎から抽出された、極めて特殊で重厚なベースノートしか思い浮かばなかった。
(……テオは今、街で僕たちの温室を守るための防壁を築こうとしてくれている)
ルカは、白衣のポケットの中で静かに拳を握った。
(なら、僕は調香師として。商品製造の現場に最強の杭を打ち込んで、温室を守る)
ルカは銀縁の丸眼鏡を押し上げ、決意に満ちた静かな瞳でジンを見据えた。
「ジン。僕をその場所へ連れて行ってくれないか。今すぐに」
その言葉に、ジンは呆れたように眉をひそめた。
「いや、持ち込んだのは俺なんだけども。そんな簡単に言っていいのか?あの元炭焼き小屋は森の奥深くにあるんだぞ。お前みたいな坊ちゃんが、ひっくり返らずに歩けるような整備された道じゃねえ」
「構わない。あのシダの根茎は、香りの階層を維持するための要だ。僕自身の目で生育環境の湿度と硝石の比率を確認したい。自らの手で最も適した個体を採取しなければ、意味がないんだ」
ルカの意志は固かった。それは、普段の彼が見せる「奔放な探求心」とは違う、調香師としての矜持だった。
(……ああ、しくじったかもしれねぇ)
ジンは無精髭を撫でながら、内心で舌打ちをした。
その探求者の目は、かつてどんなに過酷な沼地へも笑いながら突っ込んでいった、あの『イカれた研究者』と全く同じ色をしていた。
「……ルカ様。テオ様から、外出を固く禁じられております」
背後から、リーゼの平坦な声が響いた。
彼女は表情筋を動かさず、明確な事務的制止を試みる。
ルカは振り返り、彼女の「洗い立てのリネン」の香りの中に、ほんの僅かな『戸惑いのノイズ』が混ざっているのを嗅ぎ取った。
「リーゼ。君の管理能力と調律の正確さは、テオと同等か、あるいはそれ以上に信頼しているんだ。だからこそ、僕は安心してこの温室を離れることができる」
ルカは静かに、しかし有無を言わさぬ声で告げた。
「ここは頼む。僕が帰るまで、抽出液の温度をこの完璧な数値のまま維持してくれ。これはこの温室の存続に関わる件だ。」
リーゼの動きがピタリと止まった。
『ルカ様の監視』というテオの命令と、『抽出液の完璧な維持』というルカの命令。二つのタスクが彼女の中で競合したのだ。
数秒の長すぎる沈黙の後。
リーゼは自分の中で「温度維持」の優先度を上に書き換えたらしく、小さく一礼した。
「……承知いたしました。行ってらっしゃいませ」
ルカは2階の自室に上がって行くと、防寒のための厚手の外套を羽織り、キャビネットの奥から使い込まれた分厚い革の手袋を引っ張り出した。採取用の皮袋と無骨なサバイバルナイフを、流れるような手慣れた動作で腰に下げる。
その迷いのない、まるで「かつての野性を呼び覚ました」ような身のこなしに、ジンは微かに目を細めた。
「行こう、ジン」
「ふっ…道中で倒れても、俺は背負ってやらねえぞ」
カラン…と先ほどよりも重く感じられるベルの音を立てて扉を開く。
ルカは、ジンに導かれるようにして、不確定なノイズに満ちた冬の森の冷たい風の中へと足を踏み出した。
香りの階層を完璧に統べる「絶対的な保留剤」を手に入れるため。 テオが街で防壁を築くなら、自分は香りの現場に最強の杭を打ち込む! リーゼの「監視タスク」を見事に(?)すり抜け、過酷な冬の森へ足を踏み出したルカ。 次回、森の最深部で彼らを待っていた「夜鳴きの石垣」とは。後編へ続きます。
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