第20話:夜鳴きの石垣と、最初の境界線【エピローグ】
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目的の根茎を慎重に切り出し、湿った水苔で幾重にも包んで革袋に収めたその瞬間、ルカの極限まで張り詰めていた理性の糸がふつりと切れた。
「……あ、ごめんジン。やっぱりダメかも」
呟くや否や、ルカは泥と落ち葉の地面へへなへなと崩れ落ちた。しかし、その軌道は夜鳴きシダはもちろん星屑ゴケの生態にも影響しない珍妙な抜け落ち方だった。
「まてまてまて…おい、しっかりしろルカ! ここで寝たら本当に低体温で死ぬぞ!」
ジンが慌ててその細い肩を揺さぶるが、ルカは完全に過集中後のエネルギー切れを起こしている。
「ったく、なにが問題ないよだ…」
ジンは盛大にため息をつくと、諦めたようにルカを抱え上げ、己の巨大な背負い籠の中へと押し込んだ。
厚手の外套に包まれたルカは、籠の中で小さく丸まり、深い眠りに落ちていく。
2人が『硝子の庭』へ帰り着いたのは、太陽が西の山並みに隠れ、森が濃い藍色の闇に包まれ始めた頃だった。
汚れが酷いので玄関を避け、温室の勝手口を押し開けたジンが帰還を知らせるように咳払いをした。店番をしていたリーゼは、相変わらず表情筋を動かさずに彼らを出迎え一礼した。
「おかえりなさいませ。……ジン様、そちらの籠の中身は、本日新たに調達された愛玩動物でしょうか?」
「いや、ただの泥まみれの大きな荷物だ。ほらよ」
ジンが籠を下ろすと、中から泥だらけのルカが這い出してきた。リーゼは微塵も驚くことなく、ただ手元の帳簿に『ルカ様、泥と極度の疲労を伴って帰還』と淡々と書き付けた。
それから間もなくして、カラン、と芯のある真鍮のベルの音が響いた。玄関扉から入ってきたのは、仕立ての良い外套を纏ったテオだった。
彼の肩や襟元からは、街の煤煙の匂いや、ギルドの猛者たちが放つ『強欲』の不快な残り香が、微かな澱のように立ち昇っていた。タフな交渉を繰り広げてきた戦いの名残。その目元には色濃い疲労が滲んでいたが、目的を完遂してきた「商人」としての、静かな自信に満ちていた。
しかし、テオが温室に足を踏み入れ、ベンチで泥まみれになって転がっているルカと、その傍らのシードハンター、そしてテーブルの上に置かれた見慣れぬ黒い革袋を見た瞬間、彼の完璧な商人の仮面がピキリと固まった。
「……ルカ。お前、俺がいない間に一体どんなエラーを起こした?」
テオの声は低かった。もはや呆れ果てたような、オカンのトーンである。
「テオ……怒る前に…まず君の外套から漂う過剰なノイズを僕の鼻の粘膜から洗い流して欲しい。そう、君の淹れる、あの少し苦味の強い抽出液が必要だ。そして…何より…エネるギぃぃ……」
ルカの声が途絶える。
テオは深いため息をついた。
だが、何も言わずに外套を脱ぐと、無駄のない美しい所作で厨房へと向かった。 やがて、ゴリゴリと珈琲豆を挽く、硬質で規則正しい音が響き渡る。立ち昇る深煎りの芳醇なベースノートが、街の煤煙の匂いも、薬種商の強欲な残滓も、すべてを等しく、優しく包み込むように上書きしていった。
「ジンも、こいつを運んでくれたんだろ。付き合ってくれ」
テオは 薄い白磁のカップをテーブルの上に並べた。
「おい、ルカ。お前はまず口を開けろ」
素直に開けられたルカの口の中に、コロンと大きな氷砂糖を放り込んでやる。寝転んで目を閉じたまま、モゴモゴと氷砂糖を転がしていたルカは、頬に突き出た丸みが小さくなるにつれて、ゴロゴロとベンチの上で無駄な動きを始めた。そして、ようやく瞼を開けた時には、調香師の理知を瞳に蘇らせていた。
体を起こしてベンチに腰掛け直したルカは、自らが所望した珈琲に鼻を近づけ一嗅ぎすると、ホッと息を吐き出して、その液体を啜った。
「……見事な調律だ。ありがとう」
一連のルカの動作を鼻白んだ顔で見つめていたテオはこくりと頷いた後、端的に尋ねた。
「で、その袋の中身は何だ?お前は何で泥ネズミになっている?」
ルカは静かにテーブルの上の革袋を開いた。中から現れたのは、深く濃い青緑色の『夜鳴きシダ』の根茎だった。
そこから放たれる、冷たい雨と硝石の混ざり合った静謐で重厚なベースノートが、珈琲の香りの奥へと静かに沈み込んでいく。
「他所の不慣れな職人がどんなに環境ノイズ混じりで調香したとしても、この冷たい夜の香りが、抽出液の中で『絶対的な杭』になる。大量生産の成分のブレは、この保留剤でねじ伏せられるよ」
テオはその言葉の重みと、ルカが身を削ってまで手に入れたロジックの結晶を静かに噛み締めた。 そして、フッと口元を和らげ、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。……ちょうど良かったな。俺の方も、街のギルドの狸どもを相手に、確固たる『防壁』を築いてきたところだ」
テオは懐から、いくつもサインが記された契約書を取り出し、テーブルに置いた。
「素材ギルドから、ベースになる溶剤とハーブの優先枠を分捕ったのが、これ。流通ギルドから、東のオストヴァル公国への専用定期便を約束させたのが、これ」
テオは契約書のサインを指差しながら、勝利の証を噛み締める。
「一番厄介な薬師・調香師ギルドには、あくまでこれは香水であり『化粧品』なのだと言い張って、縄張り争いを回避する手打ちを済ませてきた」
顔が上を向き、自慢気に鼻がツンと立っていることにテオ自身は気づいていないのだろう。そして、おもむろにルカの瞳を見据えた。
「お前の完全監修権とレシピの独占権もな」
ルカは静かに頷き、ニコリと笑った。
「へえ。お前ら、離れててもやってることは一緒ってわけか。呆れるくらい見事な相棒だな」
ジンが珈琲を飲み干し、ニヤリと笑う。 リーゼは『テオ様 防壁構築タスクを終え帰還』と帳簿に書き加えていた。
「さあ、内と外の守りが揃ったところで夕食にしようぜ。ジン、あんたも食っていくだろ」
テオはテーブルに手をついて立ち上がった。
「おう、助かる。大荷物を背負って帰ってきたおかげで腹ペコだ」
「ルカ、お前はとりあえず、その泥を洗い流してこい。リーゼ、すまないが手伝ってやってくれ」
リーゼが「かしこまりました」と言うが早いか、大判の麻布を用意して、ズルズルとルカを温水場へ連れて行く。
『リーゼ、ありがとう。大丈夫、ちゃんと洗う。だから君は、そう、僕の着替えを用意しておいてくれるかい?』
『既にご用意しております。それよりも後頭部や背中も泥まみれです。これよりヘチマたわしによる洗浄プロセスを遂行いたします。服を脱いでください』
『い、いや、僕ちゃんと頑張って洗う。ちゃんと洗うから。だから…とりあえず出ていって』
温水場から漏れ聞こえてくる声に、ジンとテオが目を合わせて堪えきれずに吹き出す。ジンは先ほどリーゼに渡された大判の麻布を持って、庭に出た。水を被ってくるつもりらしい。
テオは腕まくりをして、熱源から鋳物鍋をかまどにくべ直す。
「朝、街へ出る前に仕込んでおいた、『鶏肉とゴロゴロ冬野菜のクリームシチュー』、さて出来はどうだ?」
テオが火を入れると、大ぶりに切られた人参やカブが、鶏肉の豊かな出汁と濃厚なミルクの中でコトコトと心地よい音を立て始めた。タイムとローリエの香りが、時間をかけてシチューの底まで深く染み渡っているのがわかった。
すっかりきれいになったルカと、先ほどよりはマシになったジン、ルカの泥だらけの白衣を片付ける際に自分のエプロンの隅に泥がついたことに気づいていないリーゼがリビングの円卓を囲み、テオがシチューの鍋をドンと置いた。
「さぁ、食おうぜ」
「いただきます!」
今日は全員がこれ以上なく空腹だ。日頃は 静かなスプーンの音も、今日は一刻を争うようにかき込むせいで、カチャカチャと賑やかだ。
ルカは頬張ったシチューを飲み下すより先に話し始めた。
「ほん…ふばらひぃ。す…ごほっ…スパイスとハーブが時間という触媒を経て、完璧なベースノートとして調和している。テオ、君の料理のロジックはやはり、見事な香りのピラミッドだよ」
「相変わらず食い物の感想が理屈っぽい坊っちゃんだが、美味いことだけは同意するぜ」
ジンは豪快に笑い、添えられた丸いパンで鍋の底まできれいに拭うようにして平らげた。
食後。
「じゃあな。明日も早いんでね」
ジンは空になった背負い籠を担ぎ上げ、満足げに手を上げて帰っていった。
静寂が戻った温室。
ベンチの下で息を潜めていたモカが、
「ぽわっ」
と鳴きながら姿を現した。
モカは、ルカの衣服に残っていた深い森の冷気と、夜鳴きシダが纏っていた『静謐な暗がりの匂い』を静かに吸い込んでいった。 そして、満ち足りたように喉の奥を
「コロン」
と鳴らすと、ぽとっ、と一つの結晶を吐き出した。
それは、深い森の深淵をそのまま閉じ込めたかのような、神秘的な深緑――エメラルドグリーンの息を呑むほど美しい結晶だった。ルカはその結晶を指先で拾い上げ、ランプの温かい光に透かして静かに目を細めた。
「ああ、美しいね…。僕たちが今日、それぞれの境界線を越えて守り抜いた、確かな調和の結晶だ」
硝子の庭は、今夜も静かに、そしてこれまで以上に強固に機能している。 二人の若者が築き上げた防壁は、完璧な調律を保っていた。
――しかし、平熱の夜は、瞬く間に明ける。
翌朝、朝露が硝子窓を白く縁取る清々しい夜明けの中。 玄関の扉が、信じられないほどの勢いで激しく叩きつけられた。
「テオの兄ちゃん! ルカの兄ちゃん! 大変!大変だ!!」
扉を開けると、そこに息を切らせて立っていたのは、あの十歳の泥だらけの少年フィンだった。 少年は鼻の頭の絆創膏を真っ赤にしながら、遠くの森の入り口を指差して叫んだ。
「王都の劇場の、すんげえ大物女優のおばちゃんがさ……『どんな匂いも操る魔法使いに会わせろ』って、金ピカの馬車に乗って、今こっちに向かってるぞ!!」
大物女優の襲来。
その言葉のノイズが響いた瞬間、ルカは珈琲カップを持ったまま静かに石化し、リーゼは無表情のまま手元のバインダーに新たな『イレギュラー案件』の頁をめくった。 テオはそっと、エプロンのポケットの胃薬の紙包へ、静かに手を伸ばす。
平熱の日常に、また新たな、あまりにも華やかで厄介な香りの暴風雨が迫っていた。
次回からは第21話がスタートします。
背中合わせの戦いを終え、美しいエメラルドグリーンの結晶と共に迎えた穏やかな夜。
――からの、翌朝。 「大物女優が金ピカの馬車で向かってるぞ!!」 フィンの急報に、ルカは石化し、テオはそっと胃薬に手を伸ばす。 次なる厄介な香りの暴風雨とは!?
***
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