第19話:揺らぐ香りと、真鍮の城【中編】
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数日後。
面接と体験入店を兼ねてやってきたのは、実用的ではあるが、華やかな色のワンピースを着た若い女性だった。
彼女は、王都へ流通した香水を購入し、その香りが放つ天才的なロジックと、漏れ聞くルカの噂から妄想を重ね、熱烈な好意を抱いていた「熱心な愛好家」の一人だった。
「ルカ様のお手伝いができるなんて、夢のようですわ!」
女性は頬を赤らめ、両手を組んで熱っぽい視線をルカへと向ける。作業台のルカは、ピタリと動きを止め、丸眼鏡の奥の瞳を僅かに細めた。
(……甘い。致死量に近い、むせ返るような過剰な花の匂いだ)
ルカの繊細な鼻腔に、インドールやヘリオトピン、エチルマルトールといった、彼女の「過度な期待」と「盲目的な好意」という、ドロドロに溶けた砂糖のような感情のトップノートが叩きつけられる。
「ぅ…。えーと。君にはまず、このビーカーの洗浄をお願いしたい」
「はいっ! 喜んで!」
女性が張り切って洗い物を始めた矢先、イリスがいつものようにやってきた。
「こんにちは。あら!さっそく体験入店の子が来ているのね」
イリスがルカにいつものように話しかけ、ルカがいつも通りに言葉を返す。 その様子を横目で捉えた瞬間、女性の感情の階層が、凄まじい勢いで反転した。
(……なんだ。一瞬にして、棘のある焦げたような匂いが混ざった)
ルカの顔色から、微かに血の色が引く。
彼女から放たれたイソブチルキノリン、グアイアコールのような「嫉妬」のミドルノートが、温室の空気を濁らせていく。
さらに、ルカが植物の細胞壁についてブツブツと独り言を呟き始めると、
「……素晴らしいですわ! さすがルカ様、凡人には理解できない深いお考えが!」
(今度はβ-フェニルエチルアミン…)
濃厚な蜜のような崇拝の匂いを放ち始める。
期待、嫉妬、崇拝。
「揺らぐ感情の過剰な連発」は、環境の一定性を重んじるルカにとって、劇薬になり、物理的なダメージとなった。
「……テオ。無理だ。僕の脳の処理回路が……あの目まぐるしい感情の揺らぎに持っていかれて、処理落ちが生じそう…だ…」
ルカはフラフラとリビングに避難してくると、そのまま白目を剥いて、革張りのソファーへとバタリと倒れ込んでしまった。
「ルカッ!?」
「きゃああっ、ルカ様!?」
テオは、大慌てで女性を外へ押し出し、
「君の作業に落ち度があるというわけではないので、大変申し訳ない。しかし、不採用だ!」
と頭を下げて丁重に帰した。
そして、ピクピクと痙攣するルカの鼻に珈琲豆が入った小袋を押し付け、顔に冷たい濡れタオルを乗せて、深く、深く反省した。天才調香師の生態系に招き入れる人間は、ただ作業をこなせるだけでは駄目なのだ。
「感情の匂い」でルカの繊細すぎる鼻を刺激しない、という最難関のハードルが存在することを、テオは痛いほどに思い知らされた。
「痛恨のミスだ。あいつに必要なのは、技術や愛想じゃない。感情の起伏が限りなくゼロで『無臭』に近い人材だったんだ」
テオは厨房のスツールに腰掛け、頭を抱えていた。
隣では、イリスがテオの淹れたハーブティーのカップを両手で包み込んでいた。
「仕方ないわね。あそこまで露骨でないにしても、人間は普通に感情が揺れ動くものだもの」
イリスはソーサーを指先でなぞりながら、ふと視線を上げた。
「…でも待って。だとしたら、いつも怒って胃薬を飲んでいるテオくんや、こうして面白がっている私は、ルカにとって一体どんな匂いなのかしら?」
「……確かに」
テオはハッとして、ソファーの方を振り返った。
自分は毎日ルカの生活にいちいち口を出し、呆れ、怒っている。なぜルカは、自分たちとは平気で同じ空間の空気を吸えるのだろうか。
「その答えのロジックは、極めてシンプルだよ」
いつの間にか目を覚ましていたルカが、毛布を引きずりながらフラフラと歩み寄ってきた。彼は円卓の椅子に力なく腰を下ろすと、眼鏡を掛け直して二人を見た。
「テオ。君の匂いのトップノートには、いつも焦げた小麦と熱いハチミツ、それに少しだけ苦い薬草、胃薬の香りが混ざっている」
「……」
なぜ未だに焦げた小麦とハチミツなのかテオは腑に落ちないのだが、反論も浮かばない。
「そしてイリス。君の匂いは、深煎りの珈琲豆の奥に隠された、上質なカカオのような静かな熱だ」
ルカは淡々と成分を解体していく。
「重要なのは、トップノートの変動値じゃない。君たちの匂いは、僕の生態系において『変わらない背景(土台)』なんだよ」
ルカの言葉に、二人は静かに耳を傾けた。
「テオがどんなに怒っても、イリスがどんなに僕を面白がっても、君たちのベースノートにある『誠実さ』や『確かさ』という成分は、微塵も揺らがない」
テオとイリスはとっさに視線を合わせる。
「どんな感情の波が表面を覆っても、底にある成分は変わらないと分かっているから……僕は、君たちといる環境で息がしやすいんだ」
天才調香師からの、不器用な賛辞。 テオは少しだけ目頭が熱くなるのを感じ、照れ隠しに咳払いをしようとした。
しかし、ルカの言葉にはまだ続きがあった。
「ただ……テオが、イリスを見ている時だけ」
ルカが、ダークブラウンの瞳でじっとテオを見つめる。
「テオのトップノートに、アドレナリン分解物が香るんだよね。いつもはない妙に青臭い『焦燥感』が混ざり込んで、むず痒くなるんだ」
ピタリ、と。テオの 時間が停止した。
イリスが、ティーカップを持ったまま、コテンと小首を傾げてテオを見る。 テオの顔から首の根元までが、一瞬にして真っ赤に染め上がった。
「ばっ…おまっ!! 寝ろ。 お前は一生毛布にくるまって寝てろ!!」
テオは立ち上がり、ルカをソファーの方へと強引に押し戻した。
「ふふっ。テオくんのトップノート……なんだか、とても可愛らしい成分ね」
イリスが口元を隠してくすくすと笑う。
「笑い事じゃない! ああもう、分かった! 絶対に感情が平らな人間を雇ってやる! どんなノイズが起きても動じない、氷の塊みたいな奴をな!」
テオの悲痛な叫びが、秋の温室に虚しく響き渡った。
その数日後。
テオが「感情の起伏がないこと」と、極端に条件を絞り込んで再募集をかけた結果、一人の女性が『硝子の庭』の扉を叩いた。
「初めまして。王都グランヴェルで記録係をしておりました、リーゼと申します」
年齢はテオと同じ二十八歳。
仕立ての良い、しかし装飾の全くない濃紺のワンピースを着た彼女は、背筋をピンと伸ばし、表情筋を一切動かすことなく一礼した。
テオが戸惑いながらルカを見ると、ルカは彼女から漂う匂いを静かに嗅ぎ取り、小さく頷いた。
「……見事だ。彼女の匂いには、一切の揺らぎ(ノイズ)がない。まるで天日干しした乾いたリネンと、古い紙に染みたインクのような、無機質で清潔な香りだ」
採用は即決された。
そしてリーゼの働きぶりは、テオの想像を絶するほど正確で、機械的だった。作業台でフラスコを振っていたルカが、ふと思い立ったように彼女に指示を出す。
「リーゼ。この抽出液の香りは、まだ月明かりに怯える夜の森のように強張っている。もっと成分を優しく解きほぐしてくれ」
普通の人間なら「え?」と聞き返すような、抽象的で詩的な指示だ。 しかし、リーゼは顔色一つ変えず、手元のメモ帳にペンを走らせた。
「抽出温度をあと二度下げて、三十分後に再度濾過ですね。承知いたしました」
「……完璧だ。君の翻訳機能は素晴らしいね」
ルカの謎の詩的表現を、彼女は王都グランヴェルの役所で培った「文書の要約スキル」によって、見事に物理的な実務へと変換し、完璧にこなしてみせたのだ。 テオが抱えていた雑務の山は、彼女の機械のような正確さによって、瞬く間に片付いていった。
しかし、優秀な従業員リーゼには一つだけ奇妙な生態があった。
休憩時間になると、彼女は温室の日当たりの良いオーク材のベンチに腰掛け、目を閉じ、口を僅かに半開きにしたまま完全にフリーズしてしまうのだ。
「リーゼ!おい、意識はあるのか!? 息してるか!?」
テオが慌てて揺さぶろうとするが、ルカがそれを制止した。
「邪魔するな、テオ。彼女は今、『光合成』をしているんだ。植物と同じように、静寂の中で自らのエネルギーを再充填している。」
ルカは、微動だにしないリーゼの姿を、まるで希少な新種の苔でも見つけたかのように、深い敬意を込めて見つめていた。
「感情の匂い」に当てられて白目を剥くルカ。 やっぱりテオとイリスの「変わらない土台の匂い」が一番安心するようです。 ――からの、天才調香師による『テオの恋心の匂い』の強制暴露。真っ赤になってルカを毛布に押し込むテオが愛おしすぎます。
そしてついに、一切の感情が揺らがない無表情な記録係・リーゼが加入! 次回、新たな仲間を迎えた『硝子の庭』の日常はどう変わる? 温かいポトフが登場する後編へ!




