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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第19話:揺らぐ香りと、真鍮の城【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

秋が深まり、森の木々は琥珀色から朽葉色へとその装いを静かに変え始めている。


落ち葉が乾いた風に舞う季節になっても、分厚いアーチ状の硝子板に守られた『硝子の庭』の中は、外界の冷え込みとは無縁だった。真鍮の歯車が微かな駆動音を立てて天窓の外へ空気を送り、壁際に群生する夜行性の苔(エア・モス)が瑞々しい緑の吐息を吐き出し、一定の湿度と温度を保ち続けている。


だが、最近の温室の空気には、微かな、しかし確かな「焦燥」のトップノートが混ざり込んでいた。


「……五十九、六十。よし、第七ロットの煮沸完了だ」


厨房の奥のエリアで、テオは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、熱湯から引き上げた大量の硝子小瓶を清潔な布の上に並べた。 ここ数週間、彼は許容量の境界線を歩き続けていた。


発端は、彼の実家であるランベール商会経由で舞い込んだ『慈愛のヴェール』と名付けられた香水。


ーーあの伝染病を忌避する特別な香水の、大規模な流通計画だった。製造と販売のロジックをランベール商会と詰めるにあたり、百本ものサンプルを至急用意する必要が生まれたのだ。


さらには、先日のリリアの無邪気な善意による子供たちの襲来(これは依頼の対価を適正な水準に引き上げることでなんとか沈静化させたが)、それに伴う外部との商談、従来の香り雑貨の納品、経理作業、温室の管理、そして何より、偏った嗅覚を持つ天才調香師の生態系を維持するための環境管理者としての役割…


これらすべてを一人で抱え込んだ結果、若く有能な支配人の目元には、隠しきれない疲労の澱(おり)が落ち始めていた。


「テオ。君の足音が、通常のリズムよりコンマ二秒ほど早くなっている。交感神経が過剰に優位になりすぎている証拠だ。胃酸の分泌量も適正値を超えているはずだから、いつもの特製胃薬を飲んだ方がいい」


煮沸消毒が終わった瓶を清潔な麻布をかけた平らな木箱にのせて調香室に運んでいくと、作業台で顕微鏡を覗き込んでいたルカが、振り返りもせずに指摘する。


「うるさい。誰のせいでこうなっていると……」


テオが短く息を吐き、言い返そうとした、その時だった。

カランと、 控えめだが芯のある真鍮のベルの音が温室の勝手口から聞こえ、心地よい衣擦れの音と、上質なジャスミンの香りが温室に流れ込んできた。


「あら。なんだか、随分と慌ただしい空気ね」


自家焙煎珈琲店『ブルーム』のオーナー、イリスだった。彼女は籐の籠に入った焼き菓子を片手に、優雅な足取りでテーブルへと歩み寄ってくる。


「いらっしゃい、イリス。ごめん、少し立て込んでいて」


テオは慌てて腰のエプロンで手を拭き、彼女のために手早く珈琲の抽出準備を始めた。豆を挽き、的確な温度の湯を落とす。商人としての矜持と、密かに想いを寄せる女性への見栄が、彼にそうした立ち振る舞いをさせていた。


やがて、ふくよかな湯気を立てる薄い白磁のカップが、イリスの前に静かに置かれる。イリスは長い睫毛を伏せ、立ち上る香りの階層を静かに確かめると、ソーサーからカップを持ち上げ、ゆっくりと一口だけ含んだ。


コトリ。


微かに硬質な音を立ててカップがソーサーに戻される。

イリスはふっと息を吐き、穏やかな瞳でテオを見つめた。


「テオくん。今日の珈琲は、少し味が尖っているようよ」


非難の声ではなかった。ただ、事実を静かな水面に落とすような響きだった。


「抽出の時、お湯を落とす手が少しだけ急いでいたんじゃないかしら?豆が本来持っている甘みが出る前に、苦味だけが焦って引き出されてしまっているの」


「……」


見事なまでに図星を突かれ、テオは言葉を失った。


「ねぇ、テオくん。ちょっと前から思っていたのだけど……無理し続けていない?」


イリスは、テオの焦燥を責めるでもなく、ただ優しく微笑んだ。


「ふふっ。責任感が強いのかしら。でもね、ここを訪れる依頼人を思い出してみて。あなたが許容量を超えて倒れてしまったら、この庭はどうなるの?」


テオはハッと息を呑む。


「一人で抱えきれないことは、切り分けて誰かの手を借りる時期が来たんじゃないかしら?」


ローカルルールに沿うあまり、責任感という名のもとに、懸命に己の心身を削って、傷つき、疲弊しきって、この硝子の庭を訪れた依頼人達。


ルカの生態ロジックによる調香や、ジンやマーサの生命の根源的な論理で、解きほぐしてきた硝子の庭である。


しかし、果たして自分は?


テオは腕組みをして考える。簡単に答えは出ないが、抱え込み過ぎている実感はあった。


「……イリスの言う通りだね。少し、自分の限界値を見誤っていたようだ」


テオは小さく息を吐き、自らの過負荷を静かに認めた。


「外部の商談や経理、それにルカの胃の管理は俺の手から離せないが…」


テオは自分が日頃ルーティンワークとしてこなしている作業を思い返す。


「…そうだな。温室内の植物の基礎管理や、香水の量産作業、硝子瓶の煮沸といった『作業』は切り分けて、担ってくれる人材を雇うことにしよう」


こうして、テオはすぐに王都の掲示板に『温室の助手募集』の張り紙を出した。 給与は相場より高めだ。


条件は「単純作業を正確にこなせること」。



しかし、それがルカの生態系を根底から脅かす、実に面倒臭い事態の幕開けとなることを、この時のテオはまだ予想していなかった。






香水の大量流通計画により、ついに限界(過労)を迎えてしまったテオ……。 焦りを「珈琲の味」で優しく見抜くイリス、さすがです! 限界を認めたテオは、ついに『温室の助手(アルバイト)』を募集することに。 ――しかし、「単純作業ができること」というだけの条件が、繊細すぎる天才調香師の生態系に大パニックを引き起こす!? 次回、波乱の面接が始まる中編へ続きます!



***


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