第18話:泥だらけの少年と、五つの報酬【後編】
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数日後の午後。
「硝子の庭」の重厚な木扉が、今度は迷いのない力強さで叩かれた。
「テオ! ルカ! 約束のもの、持ってきたぞ」
扉を開けて入ってきたのは、数日前よりもさらに全身に泥を纏い、服に無数のひっかき傷を作ったフィンだった。 フィンの両手には、約束通り、森で集めた植物が『カゴ一杯』に詰め込まれている。
「……ほう。見事な仕事だ。『苔と枝』をこれだけ集めるとはな」
テオは口元に僅かな笑みを浮かべ、カゴを受け取ろうと手を伸ばした。自らの足で対価を払い終えた少年の顔は、確かな自尊心に満ちている。
「契約成立だ。よくやったな」
テオがカゴを受け取った、その瞬間だった。
「……待った!」
調香室で顕微鏡を覗き込んでいたルカが、ふと顔を上げ、静かに、しかし抗いがたい引力に導かれるように歩み寄ってきた。 そして、テオの手にあるカゴの中の泥だらけの苔を、息を詰めて見つめた。
「どうした、ルカ」
テオが怪訝な顔をする横で、ルカは苔の裏側に付着している『白く濁った微細な粉』にそっと指先を触れ、静かな感嘆の息を漏らした。
「……驚いたな。これ、おそらく絶滅したとされている『夜鳴きシダ』の胞子だよ……発芽寸前の完璧な休眠状態で付着している…」
「えっ」
フィンが目を丸くする。
「これ、どこの岩陰で見つけたんだい? この完璧な湿度を保ったまま持ち帰るなんて……君の確かな足取りと、自然の生態系を傷つけない手の優しさがなければ、この胞子は風に散っていただろう。……はぁそれにしても『夜鳴きシダ』かぁ…んふ…んふふふふ…」
どうやら対価以上に喜んでもらえていることは理解できたが、星屑ゴケの裏側の泥をうっとりと眺めるルカから、フィンは二歩後ずさった。
その翌日から。
「硝子の庭」の静謐な環境は、呆気なく崩壊することになる。
フィンが「あの調香師、泥をちゃんと買ってくれたぞ」と無邪気に集落で触れ回ったこと、そして何より、リリアお嬢様の善意による噂の相乗効果が、大きな波となって押し寄せてきたのだ。
「お願いです、私の好きな男の子を振り向かせる甘い香水を作ってください!」
「俺の母ちゃん、いっつも怒ってばっかりなんだ。優しくなる匂い、あるだろ?」
次から次へと温室の扉を叩く、小さな依頼人たちの群れ。
彼らが放つ、思春期特有の「恋の悩み」や「反抗期の苛立ち」といった、未完成で極めて揮発性の高い感情の匂いが、密閉された温室の中に過剰なノイズとなって充満していく。
「……あー、だめだーー。空気が濁りすぎて、呼吸の階層が保てなーーーーいっ」
三日目の午後。
ついに許容量の限界を迎えたルカは、子供たちの群れから逃げるようにしてソファーに深く沈み込み、腕で顔を覆っていた。
「テオ……彼らの放つ未成熟なトップノートの暴風雨で、僕の嗅覚が完全に機能不全に陥った。今日は、もうこれまでにしてくれ……」
「やれやれ。昨日は恋に悩む少女の健気さに当てられて、『ローズマリーと月見草の勇気のコロン』を調合してやってたくせに」
テオは呆れたように小さく息を吐き、重厚な木扉に『本日の営業は終了しました』という木札を掛け、静かに鍵を下ろした。
「ほら、お前は少し無臭の空間で脳を休めてろ。俺が今から、現実世界に引き戻すための食事を作ってやる」
テオが壁際の太いレバーを引くと、歯車がギギギと重厚な音を立てて噛み合い、天窓がゆっくりと開いた。 秋の冷たく澄んだ空気が流れ込み、子供たちが残していった複雑な感情の残香を勢いよく浄化していく。
テオは腕まくりをすると、無駄のない洗練された所作で厨房に立った。
オリーブオイルに、クミンとコリアンダーの種を落とし、じっくりと弱火にかける。パチパチとスパイスが弾ける音が静かな温室に響き、鼻腔の奥をくすぐるビターで深い香りが立ち上り始めた。 そこへ、大きく切った秋野菜と、数種類のハーブでマリネした羊肉を投入し、厚手の鉄鍋で一気に焼き上げる。仕上げに、砕きたての黒胡椒をたっぷりと振りかけた。
「ルカ、飯だ」
円卓の上に置かれたのは、野生のハーブが香る『スパイスを効かせた羊肉のオーブン焼き』だった。
ソファーから身を起こしたルカは、その料理から立ち上る、複雑でビターなスパイスの香りを深く肺に吸い込み、ようやくダークブラウンの瞳に確かな平熱を取り戻した。
「……見事な嗅覚のリセットだ、テオ。クミンと羊肉の力強い大地の香りが、僕の粘膜に過剰に付着していた甘ったるいノイズを完全に洗い流してくれたよ」
「だろ。今のお前の偏った嗅覚には、こういう少し苦味の効いた大人の和音が必要だと思った」
二人は向かい合って座り、静かにナイフとフォークを動かした。 カチャリ、と銀食器が白磁の皿に触れる硬質な音だけが響く。外はすでに夕闇に包まれており、リビングはランプの温かい光と、スパイスの芳醇な香りに満たされている。
「それにしても」
テオが、羊肉を飲み込みながら、ふと息を吐いた。
「まさか、あの泥だらけのフィンが、お前が探し求めていた『夜鳴きシダ』の胞子を見つけてくるとはな。子供の無垢な行動原理は、時にどんな優秀なシードハンターの知恵にも勝るってことか」
「ああ」
ルカも、澄んだ水の入ったグラスを静かに置いて頷いた。
「彼らは未完成だからこそ、大人たちが最適化の過程で見落としてしまう、足元の小さな奇跡を拾い上げることができるのかもしれないね。あの泥と汗の香りは、僕にとって何よりも価値のある、完璧な対価だったよ」
「……ま、そのせいで俺の胃薬の消費量は跳ね上がったけどな」
テオはそう呟き、エプロンのポケットの上から、疲れた胃の辺りを軽く押さえた。
彼らの足下で息を潜めていたモカが
「ぽわっ」
と鳴きながら姿を現した。
モカは、子供たちが残していった複雑な感情の揮発成分と、最初の少年が置いていった『泥と汗の誠実な香り』を
すぅぅぅぅぅっ
と吸い込んでいった。 そして、満ち足りたように目を細めると、喉の奥で「コロン」と音を鳴らす。
ぽとっ。
モカの口から床へ転がり落ちたのは、いつもの透明な琥珀色でも、不協和音を示す黒色でもなかった。
それは、形こそ少し歪で未完成だが、内側から若葉のような瑞々しい光を放ち、静かに輝く『青葉色の結晶』だった。
「美しいね。子供たちの若々しいエネルギーと、フィンの誠実さが混ざり合った、見事な和音の結晶だ」
ルカはその青葉色の結晶を指先で拾い上げ、ランプの光に透かして静かに目を細めた。
「お前、子供が嫌いなわけじゃないんだな」
テオが僅かな呆れを交えて言うと、ルカは静かに首を振った。
「嫌いではないよ。ただ、僕の許容量には少し刺激が強すぎるだけだ。……明日からは、依頼のハードルをもう少し適正な位置まで上げて、僕たちの静寂を取り戻してくれ」
スパイスの効いた深い食事の残り香と、エア・モスが作り出す清冽な空気に包まれながら。
硝子の庭の主たちは、少しだけ騒がしかった数日間の余韻を味わうように、過不足のない静かな夜の時間を過ごしていた。
ーー少しずつ、着実に忙しくなる支配人。ノイズでキャパを超えやすくなる調香師。硝子の庭に新たな助っ人が現れ、光合成も始めるのだが、この日の2人はまだそれを知らない。
次回からは第19話がスタートします。 子どもたちの襲来で限界を迎えたルカと、胃壁がすり減るテオ。 そんな二人の前に現れる「新たな助っ人」とは!? そして「光合成」とは……? 硝子の庭がさらに賑やかになる次の更新もお楽しみに!
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