第19話:揺らぐ香りと、真鍮の城【後編】
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リーゼが『硝子の庭』の生態系に加わってから、温室の空気は驚くほど安定した。 彼女は余計な言葉を発せず、ルカの突飛なロジックにも一切動じず、ただ与えられたタスクを静かに、そして極めて高い精度で処理し続けた。
ある日の午後。
ルカが調香室で深い思索の海に沈んでいる間、テオはリーゼを伴って、温室の裏手にある貯水タンクと配管設備の点検を行っていた。
「このバルブは三日に一度、必ず開けて圧力を抜いてくれ。この温室の環境を維持するための、重要なシステムの一つだから」
「承知いたしました」
リーゼは相変わらずフラットな声で答え、手元のバインダーに迷いなくチェックを入れる。テオは、頭上に広がる巨大なアーチ状の硝子屋根を見上げ、ふと、静かに語り始めた。
「ここは昔、こんな整った温室じゃなかったんだ……」
「と、おっしゃいますと?」
「古くさくて、硝子も割れたままで穴だらけでさ。泥とほこりで曇っていて、中なんて見えなかった。俺が整備し直す前までは、ルカが、彼の恩師と一緒に研究をして過ごしていた…」
テオの濃紺の瞳に、6年前の記憶が蘇る。
実家での商人修行にキリをつけたテオが、ルカに共同事業を申し入れようと、再び古びた温室にやってきた時。
恩師アンディを失踪という形で失ったばかりのルカは、傍らのモカに分析結果を淡々と、しかし異常な早口でまくし立てていた。
「ぽわ?」
モカが一人になったルカを労るように寄り添い、身体を擦り付ける。
「ぁ、ああ…すまない。君に八つ当たりをしても事態は変わらないのにね…。休憩にしよう。今、庭からとびきり清涼な香りのミントを摘んでくるよ。一緒に楽しもう」
ぽよんと弾みながらモカはルカについてきた。ルカが庭への勝手口の扉を開いた、その時。
「………君……テオ…」
汚れた硝子から微かに見える、ルカの焦燥した姿を目の当たりにしたテオは、勝手口をすぐに開かことができず、立ち尽くす格好になっていた。
「…えーと。久しぶりだね。また会えるとは思っていなかったから……とても驚いたよ。すっかり商人の顔をしているね。…君がここに来なくなって、どれくらい経ったんだっけ?」
「10年くらいだな。修行を始めたのは13年前だけど、しばらくはここへも顔を出していたし」
自分の存在を覚えてくれていたことに安堵しながらも、ここに戻ってくると宣言したことは忘れ去られていたことにテオは戸惑いを隠せずにいた。
ルカは思考を切り替えるようにモカを抱き上げた。
「もてなしと言うほどのことはできないけど、丁度ハーブティーを淹れようと思っていたんだ。よかったら君もどう?」
再び温室に招き入れられ、テオは自分の事業計画にルカが必要であることを話し、共同事業を申し入れた。黙って聞いていたルカは静かに頷く。
こうしてテオは 自らの独立資金として貯めていた金をぶち込み、さらに融資を受けて、この巨大な真鍮の歯車と分厚い硝子板を持つ温室へと造り直したのだ。
「ここは、他者の濁った感情に耐えられないあいつの呼吸を守る、城なんだ」
リーゼの表情は、一ミリも動かなかった。 彼女の放つ「乾いたリネンの匂い」は揺らがず、ただ一言、フラットにこう返した。
「へえ、そうなんですね。貴重なお話をありがとう存じます。……あ、テオ様。先ほど煮沸した硝子フラスコ、もう洗浄液から引き上げてもよろしいですか?」
その圧倒的な揺らぎのなさ。
内心、自分達の重要な背景に重い反応が返ってくることを予想して身構えていたテオは、腰の力が抜けそうになりながらも、心の底から深く安堵の息を吐き出した。
(ああ……よかった。この女性は、ルカの歴史にも、俺の感情にも、一切引きずられない)
しかし、安堵と同時に、テオの心の中に一つの静かな葛藤が芽生え始めていた。 温室内の物理的な雑務は、彼女に任せられる。ルカも彼女を「光合成する植物」として認識し、一切のストレスを感じていないようだ。
だとしたら。
外部との商談、納品、経理、そしてルカの食事の管理……
俺は一体、この中のどれを自分の手でやり続けたいんだ?
実家で帝王学を修めた自分は、もっと大きな商会を動かす『いわゆる商人の王道』を生きるべきなのか。それとも、この温室でルカに熱いスープを作ってやる『専属料理人』であり続けたいのか。
「ふふっ。テオ。彼女はとてもいいね。『上質な木製のベンチ』みたいだ。座っても寝そべっても揺らぎがなくて、自己修復もしてくれる」
調香室から出てきたルカが、日向で光合成モードに入っているリーゼを眺めながら、極めて満足げに呟いた。
「これで僕は、煩わしい仕様書や使用の注意書き作りから解放される。テオ、僕はもう二度と事務作業には手を出さないよ。僕には圧倒的に、植物の細胞と対話する時間が足りていないんだから」
(十分すぎるほど対話しているだろうが)
というツッコミの言葉を飲み込み、テオは完全に環境に甘えて怠けモードに入ったルカを見る。
「お前は本当に……少し環境が整うと、すぐに駄目な人間になるな」
テオは壁際の真鍮製レバーを引き、歯車を動かして天窓を開けた。 秋の涼しい風が入り込み、温室の空気をすっきりと清々しくリセットしていく。
「さあ、飯にするぞ。リーゼ、光合成は終わりだ。君の歓迎会も兼ねてるんだから、しっかり食べろ」
リビングの円卓の上に並べられたのは、テオが的確な火加減で作った『季節の野菜と鶏肉のポトフ』だった。
大きく切ったカブや人参、玉ねぎが、鶏肉の豊かな出汁をたっぷりと吸い込み、スプーンで触れるだけでホロホロに崩れるほど柔らかく煮込まれている。
疲弊した胃の腑に優しく、身体の芯から熱を呼び起こす滋味深い香りが、温室を満たしていく。
そこへ、イリスが「新しい仲間のお祝いだから」と特別に差し入れてくれた、酸味の少ない優しい浅煎り珈琲の香りが、見事な和音となって重なった。
「ありがとう存じます。頂戴いたします」
リーゼは相変わらず無表情だったが、ポトフを一口食べると、ほんのわずかに口角を上げたように見えた。ルカも無言で静かにスープを喉に流し込み、ふと顔を上げてテオを見た。
「……やはり、君の火加減と塩梅で作られたスープが、僕の胃に一番正確に馴染むよ。細胞が安心しているのがわかる」
それは、テオの胸の内にあった静かな迷いを、あっさりと縛り付けるような無自覚な一言だった。
テオは小さく苦笑してそんな二人を見ながら、今日は特製胃薬を飲まずにポトフの余韻を味わった。
ベンチの下で大人しくしていたモカが、
「ぽわっ」
と鳴きながら姿を現した。 モカは、数日前の面接時に充満した「揺らぐ感情の不快な匂い」の残滓を、
すぅぅぅぅぅ……
と吸い込んでいく。 そして、満ち足りたように喉を鳴らすと、ぽとっ、と一つの結晶を吐き出した。
それは、感情の濁りが一切ない、「洗い立てのリネン」のように清潔で透き通った、淡い琥珀色の結晶だった。
テオの胸の内には静かな葛藤の波は残るものの、「硝子の庭」の新しい日常が、ポトフの温かい湯気とともに静かにスタートしていた。
――新しい仲間を迎え、少し身軽になったルカとテオ。
居心地の良いこの「硝子の庭」から飛び出し、彼らがそれぞれ外界の風へと足を踏み出すことになるのは、もう少しだけ先の話である。
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