第17話:魔法使いの万年筆と、純粋すぎる善意【後編】
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斜めに差し込んでいた光が、ゆっくりと夕暮れの琥珀色に染まり始めた頃。
ルカの視線がふと、木製テーブルの上に置かれたままになっている、父親の分厚い革張りのノートに吸い寄せられた。
「……少し、調律が狂っているな」
ルカはノートをそっと引き寄せ、パラパラとページをめくり始めた。
「この試薬の抽出比率……まるで不協和音のように、自然の理を歪めてしまっている。これでは香りの美しい調和は生まれない」
ルカのダークブラウンの瞳が、静かな調香師の、過不足を許さない真剣な眼差しに変わる。
「えっ、お兄ちゃま、この難しい数式が分かるの? すごい! じゃあお兄ちゃまが正しい答えを書いてあげて! お父様、きっとすっごくビックリして喜ぶわ!」
リリアが無邪気に目を輝かせ、ルカに使い込まれた万年筆を手渡す。
「……そうだね。間違った和音は、ただ正しく調律されるのを待っているだけだ」
ルカは万年筆を手に取ると、ノートの次のページに、流れるような手つきで複雑な数式や正しい調合比率の軌跡を描き加え始めた。
かつて、薄暗い書庫の奥で、扉の向こうから聞こえる医学の議論を密かに解き明かしていた頃のように。
「わぁっ…」
リリアは両手の指を胸の前で組んで、兄と同じ色の瞳を輝かせる。
しかし、試薬の抽出比率を書き終えた瞬間、その極度に集中した「探求の熱気」が冷めていく。
「……いけない。ラストノートまで解き明かしてしまった…思考回路から熱が失われて……」
「え?え?お兄ちゃま??」
パラリ、と万年筆が手から滑り落ちる。視界がぐらりと歪んだが、妹の手前、膝から崩れるのはかろうじて避けた。
結果、テーブルの天板とルカの額が引き合うように重なった。
「だめだ……この複雑な数式の再構築に、僕の限られた精神力をすべて使い果たしてしまった……。テオ、濃厚な糖分とタンパク質を……」
テーブルに散らされた兄の髪を、泣きそうな目で見ていたリリアが何かしなくてはと立ちあがろうとした瞬間。
「おいおい。相変わらず極端に燃費が悪いな」
テオが歩み寄り、慣れた手つきでルカの頭を上げさせると、下敷きになっていたノートをスッと引き抜いた。そして、ルカが数式を書き足したページを素早く破り取ると、リリアから見えないように自分のエプロンのポケットへと隠す。
「現役の教授のノートを勝手に書き換えるなよ…少しは親父の面目ってもんを考えてやれ。」
その言葉の意味が分からないリリアは、テオのポケットを見つめて首を傾げた。
「あの!テオさん、それ捨てちゃうの?私、お父様には絶対内緒にする!私の宝箱にしまっておくわ。だから、お願い。それ私にちょうだい!」
一瞬、どうしたものかと考えたテオだが、頭を横に振った。
「残念ですが、これはルカの『落書き』ですから、お渡しできません。代わりに……そうですね。ルカが今朝スケッチしていた花の絵を差し上げましょう」
テオは作業台の隅から1枚の羊皮紙を持ち出し、万年筆と共にリリアの鞄へとそっとしまった。
「わぁ、素敵!」
リリアが夢中になってスケッチを見ている間に、テオは中央の真鍮製レバーを引いた。
ガコン、と響く音とともに天窓の換気システムが起動する。「ギギギ……」と心地よい唸りを上げて窓が開き、秋の冷たく澄んだ空気が一気に流れ込む。
温室内のエア・モスが淡い燐光を放ち始め、ルカの纏っていた「探求の熱気」と、ノートから漂っていた「父の焦燥の匂い」が、夕暮れの風に乗って外へと静かに吸い出されていった。
「さあ、夕食にしよう。君のすり減った脳を修復する時間だ。リリアお嬢様も、食べていかれますか?」
テオが腕まくりをして、静かに厨房に火を入れる。
本日のメニューは、『牛肉と秋野菜の甘辛いトマト煮込み』だった。
温室の熱源を利用してじっくりと火を通された大鍋からは、赤ワインの深いコクとトマトの瑞々しい酸味が溶け合った、濃厚な香りが湯気とともに立ち昇る。ホロホロになるまで煮込まれた牛肉の旨味に、タイムとローリエの爽やかな青い香りがふくよかに絡み合い、添えられた丸い手作りパンの香ばしい匂いが食欲を刺激した。
「わあ……すっごくいい匂い! テオさんのお料理、すごいわ! いただきます!」
リリアが目を輝かせてパンをちぎる。ルカも真面目な顔で静かに肉を咀嚼し、極上の旨味が疲弊した全身の細胞にじわじわと染み渡っていくのを感じていた。
テオはそんな二人を見守りながら、白磁のカップに琥珀色の紅茶を注ぐ。そこにあるのは、過剰な言葉のいらない、五感を満たす穏やかで温かな食卓の風景だった。
「さて、名残惜しいけれど、私、お父様が帰ってくる前に戻らないと」
リリアは革鞄をしっかりと抱え直し、入り口の扉へと向かった。
「ええ。先ほど、お嬢様のために安全な辻馬車を入り口に呼んでおきました。御者には屋敷の近くまで送り届けるよう手配してあります」
テオが完璧な笑みでエスコートする。
「わぁ、テオさんありがとう! 今日は本当に楽しかったわ、お兄ちゃま!」
リリアは振り返り、満面の笑みを浮かべて、誇らしげに宣言した。
「私、決めたわ。お兄ちゃまの隠れ家のこと、もっと街の子供たちに教えてあげる! 森には、変な鳥の魔法使いなんかじゃなくて、すっごく優しくて頭のいい、私の自慢のお兄ちゃまがいるんだって!」
「……えっ」
ルカの動きが、白磁のカップを持ったまま完全に停止した。
「ちょっと待ってください、お嬢様。それは非常にまずい。ルカは他者の騒がしい気配に極めて弱く……」
テオが商人の冷静さを失いかけて止めに入ろうとしたが、愛する兄を自慢したいというリリアの無邪気な善意の揮発は、もう誰にも止められない。
「大丈夫よ、私に任せておいて! いーっぱいお友達連れてくるからね! じゃあね、また遊びに来るわ!」
パタン。 リリアはふわりとコートの裾を翻し、待たせていた馬車へと弾むような足取りで乗り込んでいった。
窓の向こうで、カパカパと遠ざかっていく馬の蹄の音が響く。
深い静寂が戻った『硝子の庭』。
「……テオ」
ガシャン、と。ルカの手から白磁のカップが滑り落ち、ソーサーの上で悲鳴のような音を立てた。
「どうやら僕は明日から、極めて騒々しいノイズの海で、ひどく濁った空気を吸って生きなければならないようだ……」
木製のソファーに深く沈み込み、完全に魂が抜けたような顔で呼吸の乱れを訴えるルカ。
その横で、テオは何も言わず、エプロンのポケットからいつもの胃薬を取り出すと、秋の夜風を感じながら静かにそれを水で流し込んだ。
「ぽわぁ?」
2人の絶望を感じ取ったのか、テオによって2階に避難させられていたモカが、ぽよんと弾みながら階段を降りてきた。空間に残されていた実家の「古いインクの香り」と、父の抱えていた「微かな後ろめたさの澱」を、小さな口から
「すぅぅぅ……」
と一息に吸い込んでいく。
お腹を少しだけ膨らませたモカは、満足げに目を細めると、喉の奥で「コロン」と愛らしい音を鳴らした。
ぽとっ。
床に転がり落ちたのは、深い夜の紺色から、うっすらとした朝焼けの透明へと美しくグラデーションしていく、見事な純度の結晶だった。 それはまるで、夜明けの書庫で本を読み耽っていたルカの静かな記憶と、外の世界で答えを探し続ける父の不器用な想いが、美しく調律され、昇華されたもののようだった。
テオが胃を押さえながら、手際よくその美しい結晶を回収する。
(……親父さんの面目は守ったが、こっちはこっちで、悪い形にはならなかったらしいな)
同時に、温室の空気は、瑞々しい秋の夜露の香りへと心地よく塗り替えられていた。
健やかに育ち、色鮮やかな香りを纏った少女の純粋な善意は、時にどんな自然環境の乱れよりも恐ろしい。
ーーー明日からこの静かな温室に、騒がしい子供たちの足音が押し寄せるという確かな予感を抱えながら、二人は深い、深いため息を夜の空気に溶かしたのだった。
次回からは第18話がスタートします。
「お兄ちゃまの隠れ家、お友達にいーっぱい教えてあげる!」
妹の純粋すぎる善意によって、ルカの静かな聖域は崩壊の危機に!?
胃薬が手放せないテオの運命やいかに。
次の更新もお楽しみに!
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