第18話:泥だらけの少年と、五つの報酬【前編】
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秋の陽光が、飴色に色づいた森の木々をすり抜け、「硝子の庭」の天窓に柔らかな影の模様を落としている。
前回の騒動――ルカの妹であるリリアの無邪気な「宣戦布告」から数日が過ぎていた。
ルカはこの数日、いつ子供たちの群れが扉を打ち破ってくるかと、調香室の奥で怯え続けている。
彼女の宣言通り、下の集落ではあっという間に『森の奥の温室には、どんな願いも叶える魔法使いがいる』という噂が風に乗って広まっていた。 当初囁かれていた「不気味な黒い鳥」という怪談は、リリアという肯定者によって見事に塗り替えられ、今やこの場所は、神秘的で特別な願いを叶えてくれる秘密の聖域のような扱いを受け始めているらしい。
その日の午後。
真鍮の歯車が微かに軋む音と、壁際に群生する苔が静かに呼吸する気配だけが満ちる温室の作業台では、ルカが薄い硝子のフラスコを透かし、抽出されたばかりの淡い琥珀色の液体を静かに見つめている。
テオは応接スペース隣の執務室で、使い込まれた革表紙の帳簿に、ゆっくりと万年筆を走らせていた。
コツ、コツ。
玄関の扉が、ひどく遠慮がちに、ためらいを伴って叩かれた。
いつもの横暴な大商人や、図太い常連客の叩き方ではない。小さな手が、恐る恐る木肌に触れているような、微かな音だった。 テオがペンの動きを止め、静かに扉を開ける。
そこ立っていたのは、擦り切れた麻の服を着た、十歳ほどの少年だった。
膝には転んだような泥の跡があり、頬には黒い土の汚れがこびりついている。彼は足元の磨き上げられた床を汚してしまうことを恐れるように、敷居の前で立ち尽くし、テオをぎろりと睨みつけた。
まるで、傷ついた小動物が精一杯の虚勢を張っているかのような、鋭くも脆い目つきだった。
「……あんたが、噂の魔法使いか?」
少年は、乾いた唇を舐めてから、かすれた声で尋ねた。
テオは何も言わず、少年の目線に合わせてゆっくりと片膝をついた。子供相手の安易な笑顔を浮かべることはせず、ただ彼の強張りを解くように、静かな瞬きを一つだけ返し、少年を温室に案内した。
テオが少年に椅子をすすめる。
奥の作業台で刈り取ったハーブを乾燥させるために束ねていたルカの鼻腔に、少年が纏っている『香り』が静かに流れ込んできた。肩がビクッと跳ねる。ルカは静かに振り返り、少年の姿を確認すると、仕方なさそうに歩みを進めた。
トップノートは、秋の冷たい森を走り抜けてきた乾いた土の匂い。
ミドルノートには、微かに発酵したような落ち葉の匂い。
そしてベースノートには、未成熟な体温によって揮発した、生々しい汗の匂いが沈んでいた。
染みのついた白衣の裾を揺らしながら歩いてきたルカに気づいた少年は、ガタンと立ち上がって、もう一度尋ねる。
「あんたが魔法使いか?」
これが、リリアが噂を更新した結果、生まれてきたことなのだとルカは理解した。
「ううん、魔法使いではないよ。僕はただ、自然が織り成す香りの階層を読み解き、調律するだけの調香師だ」
ルカは淡々とした声で答え、それをテオが補った。
「人や植物には匂いがあるだろう?調香師というのは、人間や物がどんな匂いを出しているか、今ある匂いに何を足したら、心地の良い香りになるのか調べて、それを作りあげる仕事だ」
「そっか魔法が使えるわけじゃないんだな…」
少年は少し残念そうに一瞬視線を落としたが、もう一度ルカを睨みつけた。
「でも、今ある匂いは分かるんだよな」
ルカにはこの少年がここを訪れた理由がわかった気がした。
少年は、足元の靴のつま先を見つめたまま、絞り出すように言った。
「……俺って、臭いのか?」
その小さな両手は、ズボンの布地をぎゅっと力強く握りしめている。
「近所の女子に、言われたんだ。俺が通ると泥の匂いがする、汗臭いから近づかないでって。母ちゃんも、洗濯するたびになかなか匂いが取れないねぇって言う。……俺は、毎日川で水浴びをしてるのに」
少年の言葉の端々に、深く傷ついた自尊心が滲んでいた。
自分が存在しているだけで、他者の環境を不快にさせているのではないかという恐怖。活発に走り回る少年特有の自然な匂いを「悪臭」として拒絶されたことによる、行き場のないノイズ。
「なぁ。匂い、消せるか? なんかカッコいい匂いとか、女子たちみたいな花の匂いとかにしてくれよ」
少年の切実な願いが、静かな温室の空気に溶け込んでいく。
ルカが、その香りの構造を解き明かそうと口を開きかけた、その時。
テオが静かに立ち上がり、ルカの前にすっと腕を出して制した。
「……依頼として引き受けよう」
テオの顔つきが、先ほどまでの穏やかな青年から、隙のない「商人」のそれへと静かに切り替わっていた。目の前の小さな少年を、対等な取引相手として尊重する響きがあった。
少年がハッと顔を上げる。
「だが、依頼には相応の対価が必要だ」
テオは背筋を伸ばし、少年の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「職人が費やした時間と技術に対する敬意、それが対価だ。こいつは職人、俺は商人だ。対価のない取引はしない」
少年の顔が、微かに歪んだ。
「……金なら、ない。親父の財布から盗むわけにもいかねえし……」
現金を持たない少年のプライドが音を立てて崩れそうになった。
テオは、胸のポケットから上質な羊皮紙の端切れと万年筆を取り出し、さらさらと流れるような手つきで何かを書き付けた。そして、それを少年の手の中へそっと差し出す。
「これが、今回の依頼の契約金だ」
少年が受け取った羊皮紙には、流麗な文字と、まだ字を読むのが苦手かもしれない彼のための、植物のスケッチが描かれていた。
星屑ゴケ
赤松の落ち枝
野イチゴ
川辺の白石
胡桃の殻
「この五種類のうち、どれでもいい。君が集めやすいものを、バスケット一杯にして持ってくること」
テオは、少年の肩にポンと軽く手を置いた。
「コケや白石は温室の環境管理に使うし、野イチゴや胡桃は今日の厨房の役に立つ。俺たちの温室では、森が育んだ資源は金貨と同じ価値を持つんだ。君の足で森を歩き、君の手で集めたものが、この依頼の正当な対価になる。払えるか?」
少年の瞳が、見開かれた。
大人から一方的に与えられる「施し」ではなく、自分の足で、自分の力で「対価を払う」ことができるという事実。
擦り切れた麻の服を着た少年の目に、先ほどまでの怯えやコンプレックスの澱が拭い去られ、確かな光が戻った。 彼は羊皮紙を胸に抱きしめ、テオとルカに向かって、深く、力強く頷いた。
「ああ。払ってやる。俺の名前はフィン。一番いいやつを集めてきてやるよ!」
テオは満足げに頷き、ルカへと視線で合図を送った。
「さあ、契約は結ばれた。ルカ、仕事の時間だ」
ルカは静かに瞬きをし、少年を調香室に案内した。
少年が纏う「泥と汗の香り」に隠された、真実の階層を解き明かすために。
妹の「宣戦布告」から数日。怯えるルカの元に現れたのは、泥だらけの少年。 自分の匂いを恥じる彼に、テオは商人として「五つの対価」を要求し、誇りを取り戻させる。 次回、天才調香師が少年の「泥と汗の匂い」に隠された真実を解き明かす中編へ続きます。
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