第16話:黒き鳥の面と、西の渓谷の残り香【中編】
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窓の外で、集落の子供たちがパニックを起こして逃げ去っていったことなど、漆黒の鳥の面を被ったルカの意識の端には、微塵も引っかかっていなかった。
彼の脳内は今、分厚い革の繊維に染み付いた「見知らぬ香り」の階層構造を解き明かすことで完全に占められている。
「テオ。僕は今から、この歴史的遺物の深淵に潜る。僕の呼吸を邪魔するノイズは、一切排除したい」
ルカは顔の下半分から巨大な嘴を突き出したまま、白衣を翻し、調香室へと一直線に歩いていった。
ガチャン
と重厚なラッチが下り、無音と無臭の空間がルカを包み込む。
「……あいつ、本当にあの気味の悪い面を気に入ってしまったのか。俺の作った朝食の残り香より、そっちの得体の知れない匂いの方が興味深いらしい」
取り残されたテオが呟くと、ジンはテーブルの椅子に深く腰掛けながら、面白そうに木製パイプの煙をくゆらせた。
「まあ、職人の知的好奇心ってやつさ。だが……あいつの顔つきが、ただ珍しい玩具を見つけただけのそれじゃなかったのは確かだな」
ルカは調香台の前でペストマスクを被ったまま、静かに目を閉じていた。
自分の吐息がマスクの嘴の内部を循環する。すると革に染み付いた古い香気成分が微かに温められて揮発していく。ルカの鋭敏な嗅覚が、その微細な分子の一つ一つを捕らえ、脳内の成分ロジックと照合し始めた。
トップノート:強力な防腐作用を持つ樟脳と、鎮痛効果のある丁子
ミドルノート:古い時代から祈りの儀式に使われてきた没薬
「……香草と樹脂の力で、外気から侵入する病原菌を物理的に叩き落とす。まさに、かつての医師たちが用いた『ペストマスク』の、理にかなった古典的な処方だ。……だが」
ルカの声のトーンが、ふと、鋭いものへと変わった。
彼は一度マスクを外し、内側の革の縫い目に直接鼻を近づけて、もう一度深く息を吸い込む。
「ベースノートの配合比率が……おかしい。いや、おかしいんじゃない。恐ろしいほどに高度に洗練されている……っ」
バァンッ!!
突如として、調香室の硝子扉が勢いよく内側から開け放たれた。
「ルカ? どうした」
テオが怪訝そうに振り返ると、そこには僅かに血の気を失った顔で、鳥の面を両手で握りしめているルカの姿があった。
「カンファーもクローブも、単体ではひどく自己主張が強いんだ。だから、どうしても香りの『角』が立つものなんだ。定石通りに調合すれば、鼻を刺すような鋭い薬の匂いになるはず。でも、このマスクの匂いは違う」
ルカは宙に浮いた見えない何かを両手で包み込むように、ゆっくりと、撫でるような仕草をした。
「すべての香りの角が削り落とされてる。互いの成分が寸分の狂いもなく一つに噛み合っていて。継ぎ目のない『完璧な球体』になっているんだ。過不足が一切ない…」
「……香りの、球体……」
「ああ。香りの階層を球体として構築する。この極めて特異な調香の癖……。これは……僕の『恩師』の技術に似過ぎている」
「恩師……だ?」
テオの濃紺の瞳が、僅かに見開かれた。
テオの脳裏にも、かすかな記憶が残っている。
かつての古い温室で、ルカよりも長くそこを根城にしていた白衣姿の大人。
子供だったテオが温室を『自称・隠れ家』として入り浸っても、まるで景色の一部のように一切気にも留めない、不思議な人物だった。
ルカに調香や生態ロジックを叩き込み、あの不思議な毛玉・モカをルカに託して姿を消したという、未だ深い霧に包まれた謎の調香師。
その影が、ジンが持ち帰ったこんな不気味なマスクの奥底から見つかったというのか。
ルカは血の気の失せた顔のまま、円卓でパイプを吹かしているシードハンターに鋭い視線を向けた。
「ジン。君はこのマスクを、西の渓谷の交易所で、奇妙な行商から譲り受けたと言ったよね。彼らは、これをどこへ運ぼうとしていたんだ?」
ルカの切迫した問いに、ジンは咥えていたパイプをゆっくりと外し、灰皿に静かに叩きつけた。
彼が纏う野山の空気からも、先ほどの穏やかな余裕は消え去っていた。
「……あいつの技術だと言うなら、辻褄が合うかもしれないな。少し骨の折れる話だ」
ジンは腕を組み、静かに語り始めた。
「俺がすれ違ったその一団は、西の渓谷に留まる者たちじゃなかった。彼らは東のオストヴァル公国へ向かう途中だったんだ」
「オストヴァル公国……。ついこの間、大貴族のヴェルター伯爵が『伝染病を退ける記憶の香水』を求めて使いを寄こしてきた、あの国か」
テオが、ヒリヒリとした商談の記憶を呼び起こしながら相槌を打つ。
「そうだ。その商人たちが妙なことを言っていた。今、そのオストヴァル国境付近で、原因不明の厄介な伝染病が流行り始めているらしい。それで、なぜか西の渓谷にある秘密の工房を経由して、この手のペストマスクと、特定の効能を持った『香薬』が、大量にオストヴァルに向けて流れているそうだ」
ジンのもたらした情報に、温室の空気が一気に重く、密度を増した。
西の渓谷で見つかった、恩師の技術に酷似した高度な調香のマスク。
そして、オストヴァル公国で広がりつつある伝染病と、そこへ向けて大量に輸送される香りの防具。
点在していた事実が、不気味な輪郭を描き始めていた。
「もし、その大量のペストマスクを作っているのが、僕の恩師だとしたら……」
ルカは円卓の上に置かれた黒い鳥の面を、もう一度手に取った。 恩師がどこかで生きているかもしれないという微かな希望。それだけであれば、ルカの胸はもっと穏やかな熱を帯びていたはずだ。
しかし、ルカはマスクの嘴の奥深くに鼻を近づけ、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「……なんだろう、これ。球体なんだけど、ひどく、濁った匂いなんだ」
「濁った匂い?」
「うん。確かに、技術の癖は恩師のものだ。……でも、匂いの『芯』が違う」
ルカの感情を読ませないダークブラウンの瞳に、微かな混乱と警戒の色が揺らめいた。
「あの人がかつて僕に教えてくれた調香は、もっと自然の生態ロジックに寄り添った、命の呼吸を慈しむような温かい香りだった。でも、このマスクの底にこびりついている匂いは……どこかひどく冷淡で、血の通った命の気配がしない。まるで感情を持たない歯車が算出したような、『人工的で濁った匂い』が混ざっているんだ」
自然界の理を何よりも重んじるルカにとって、それは最も忌むべき不協和音だった。
「もしかして、恩師の技術が何者かに利用されているか……。あるいは」
テオが、最悪の可能性を口にするのを、わずかに躊躇った。
あるいは…恩師自身が何らかの理由で信条を曲げ、大局的な陰謀に加担しているのか。
謎の伝染病の流行と、それに合わせたかのようなマスクの大量流通。
まるで、病の恐怖を煽ることで広範囲の利権を握ろうとする冷酷な商いの匂いが、その漆黒の革の奥底から漂ってくるようだった。
『恩師が生きているかもしれない』という希望と、『得体の知れない深い闇に呑み込まれているかもしれない』という悪寒。
その二つの相反する情報が混ざり合った複雑な匂いが、雨上がりの「硝子の庭」に、音もなく、静かに落ちていった。
ペストマスクに染み付いた匂いは、ルカの「謎の恩師」の技術だった。
しかし、その匂いは完璧な球体でありながら、ひどく冷淡で濁っている。
東の国で広がる伝染病と、恩師の影。
ルカを襲う深い悪寒……。
次回、深淵に呑まれかけたルカを「現世」へ引き戻す後編へ続きます。
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