第16話:黒き鳥の面と、西の渓谷の残り香【後編】
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恩師がどこかで生きているかもしれないという微かな光と、得体の知れない深い闇に呑み込まれているかもしれないという悪寒。
その二つの相反する情報の揺らぎと、ペストマスクの奥底にこびりついた「血の通わない、人工的で濁った匂い」は、ルカの繊細な嗅覚の許容量を、簡単に凌駕した。
「……うぅ。…情報量が多すぎる。香りの階層がひどく濁っていて……ああ、もうっ!ものすごーーくイヤだ!」
プツン
ピンと張っていたルカの集中の糸が、音を立てて切れた。
ルカは漆黒の鳥の面をテーブルの上へ無造作に放り投げると、両手でバサバサと自分の頭を掻き毟り、そのままベンチの上へとズルズルと溶けるように沈み込んでいく。
「見事な調香の軌跡と、命の気配を削ぎ落とした意図。こんな矛盾した香りの渦をこれ以上分析し続けたら、僕の構築した生態ロジックまで濁ってしまう。……解析は保留にするよ、テオ」
「……だから、被るなと言ったんだ。お前の許容量で、得体の知れないものの深淵なんて覗き込もうとするからそうなる」
テオは短く息を吐きながら、円卓の上に転がったペストマスクを忌々しげに見下ろした。
そして、戸棚から分厚いキャンバス地の袋を取り出すと、その不気味な怪鳥の顔を乱暴に放り込み、革紐で何重にもきつく縛り上げて、その「濁った匂い」を封印した。
「ほら、起きろ。亡霊の匂いを嗅ぐのはそこまでだ。こっちへ戻ってこい」
テオがすかさず、ルカの鼻先に突きつけたのは、小皿に乗せた「ローストしたニンニクとバター」だった。
暴力的なまでに食欲をそそる、圧倒的な現世の匂い。
病の気配も陰謀の悪寒もすべてを強引に上書きする、強烈なカロリーの香りがルカの嗅覚を真正面から殴りつけた。
「ぬあっ……!」
ルカが僅かに顔をしかめ、思索の海から、温かな現実世界へと意識を引き戻される。
テオは腑抜けたルカの脇に両手を差し入れ、
「飯にするぞ」
と、ダイニングの丸テーブルへ向けて引きずり出していった。
テオが温室中央の太い真鍮製レバーを引くと、「ガシャガシャ」と歯車が重厚な唸りを上げて噛み合い、天井の換気システムが静かに作動する。
天窓がゆっくりと開放され、秋の冷たく澄んだ空気が一気に流れ込んできた。
温室に滞留していた微かな悪寒や、ルカが吐き出した不安の残香が、新鮮な外気によって勢いよく浄化されていく。
「さあ、食え。冷えた胃の腑を温めようぜ」
テオがテーブルの中央にドンと置いたのは、湯気を立てる大きな土鍋だった。
蓋を開けると、大ぶりに切られた柔らかな鶏肉と、秋の野山で採れた数種類のキノコが、濃厚な白いクリームソースの中で「ふつふつ」と心地よい音を立てて煮込まれている。
「おう、こりゃあたまらなく美味そうな匂いだ」
ジンが目尻のシワを深くして、手にした木製のスプーンを揺らした。
「ジンが持ち帰ってくれた『西の渓谷の岩塩』を使わせてもらった。昔の海が長い時間をかけて結晶化したという、ミネラルを豊富に含んだ塩だ。塩味の角が丸くて、旨みがあるから、素材の力だけで仕上げてみた」
「そいつは嬉しいね。早々に俺の土産が役立って何よりだ」
三人はテーブルを囲み、熱々のクリーム煮込みを口に運んだ。
かまどの余熱でじっくりと火を通された鶏肉は、スプーンを入れるだけでほろりと崩れるほど柔らかく、数種類のキノコから滲み出た大地の出汁が、濃厚なクリームに複雑で深いコクを与えている。
そして何より、テオの言う通り「西の渓谷の岩塩」のまろやかな塩味が、クリームの重さを引き締めつつも、素材の持つ自然な甘みを極限まで引き出していた。
ルカは鶏肉をしっかりと咀嚼し、嚥下してから、ポツリと口を開いた。
「……見事な調和だ」
ルカのダークブラウンの瞳に、確かな生気が戻っている。
「さっきの匂いとまるで違う。鶏肉の柔らかな命、キノコが吸い上げた豊かな土の記憶、そして途方もない時間をかけて結晶化した海とミネラルの恵み。……テオの作るこの食事には、確かな命の熱がある」
「当たり前だ。得体の知れない亡霊の匂いなんぞに、俺の飯が負けるか」
テオは少しだけ誇らしげに目を細め、こんがりと焼けたバゲットをクリームソースに浸してかじりついた。「サクッ」という心地よい音が、温室の静寂に響く。
温かい食事が胃の腑に落ちていくにつれ、ルカの胸の奥に薄く張り付いていた「恩師が深い闇に呑まれているかもしれない」という微かな悪寒が、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
確かに、恩師の行方も、オストヴァル公国で広がる病の正体も、まだ何も分からない。
だが、今のルカは、かつて過剰なノイズに苛まれていた孤独な子供ではない。
隣には、自分を健やかな世界に繋ぎ止めてくれる商人がいて、向かいには、外の世界の理を教えてくれる屈強な旅人がいる。
この過不足のない、確かな「群れ」の匂いがある限り、自分が一人で闇に沈むことはないのだと、ルカは熱々のクリーム煮を飲み込みながら、静かに息を整えていた。
食後の温室。
満ち足りた空気の中、ベンチの下に姿を隠していたモカが、
「ぽわっ」
と鳴きながら姿を現した。
モカは、テオがペストマスクを封印したキャンバス地の袋のそばへ寄ってきた。
そして、分厚い布の隙間からわずかに漏れ出ている不気味な残香と、ルカが先ほどまで抱いていた不安の感情を、小さな口を丸く開けて
「すぅぅぅぅぅ……」
と一息に吸い込んでいった。
お腹を膨らませたモカは、静かに目を細め、喉の奥で「コロン」と音を鳴らす。 ぽとっ。 モカの口から転がり落ちた結晶が、床で微かな硬質な音を立てた。
ルカがそれを拾い上げ、真鍮ランプの光に透かす。
「……なるほど。やはり、これは単なる不安や悪意ではないんだね」
ルカの指先にあったのは、いつものような透明感のある琥珀色の結晶でも、明確な危機を示す赤色のそれとも違っていた。それは、外側こそあのマスクの匂いと同じ『寸分の狂いもない滑らかな球体』の形をしているが、ガラス玉のような内部には「黒く濁った灰色の靄」がドロドロと混じり合っている、酷く冷たい印象を与える結晶だった。
「……いずれ、あの匂いの正体を、僕自身が直接確かめなければいけない時が来るのかもしれない」
ルカは灰色の結晶を小さな遮光瓶に入れ、静かに蓋を閉めた。
温室の壁に群生する夜行性の苔が微かに光り始め、空間の空気をすっきりと清々しい『朝露の香り』へと浄化していく。
微かに残るクリーム煮の甘く香ばしい残り香に包まれながら、ルカは静かに、来るべき謎との対峙に向けて深く息を吸い込んでいた。
ーーー異様なマスクと、遠い異国の不穏な気配。しかし、硝子の庭に張り詰めたこの緊張感を見事に蹴り破ってくれたのは、仕立ての良いコートに身を包んだ『10歳の少女・リリア』であった。
次回からは第17話がスタートします。
モカが吐き出した、不気味な「黒く濁った灰色の結晶」。
オストヴァル公国の陰謀の気配に緊張が走る硝子の庭だが、 一人の「10歳の少女」の登場が、すべてを蹴り破る!?
次の更新もお楽しみに!
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