第16話:黒き鳥の面と、西の渓谷の残り香【前編】
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澄み切った秋の空気が、アーチ状の硝子板の向こうで静かに冷え込み始めている。
昨夜の冷たい雨はすっかり上がり、「硝子の庭」の午前中は、柔らかな陽光と瑞々しい静寂に包まれていた。
「……ふぁあ。よく寝た。やっぱりテオの飯とマーサの粥は、冷え切った骨の髄まで効くぜ」
温室の片隅に置かれたベンチで、豪快な欠伸とともに身を起こしたのは、シードハンターのジンだった。
昨夜、『西の渓谷』方面へのハントの旅から帰還した彼は、二人の料理人が火花を散らした『群れの食卓』の熱気を誰よりも満喫し、長旅の疲労からそのままベンチで泥のように眠りこけていたのだ。
「おはよう、ジン。いくら温室の環境管理が良くても、寝冷えするよ」
静かに帳簿をつけていたテオが、呆れたように苦笑しながら、深く焙煎された温かい珈琲を差し出す。
温室の奥の作業台では、すっかり身体の秩序を取り戻した天才調香師のルカが、ピンセットで繊細な花弁を分解しながら、
「君のいびきの不規則なリズムは、西の渓谷に生息する大山猫の威嚇音に極めて近い波長だったよ」
と、淡々とした声で歓迎した。
「そいつは……なんだ、野生の証明ってやつか。勘弁してくれ。……っと、そういえば。昨夜は極上の飯の匂いに釣られてすっかり忘れていたが」
ジンは珈琲を受け取ると、ベンチの足元に転がしておいた自身の巨大な革鞄を引き寄せた。
「今回の旅で、少しばかり興味深いものを手に入れてな。西の渓谷の交易所で、奇妙な行商の一団とすれ違ったんだが、そいつらの荷馬車に積んであった『これ』が妙に鼻について、ひとつ譲ってもらったんだ」
ジンが鞄の重い留め金を外し、中から取り出した「それ」を見た瞬間。
テオは端正な顔を盛大に顰め、無意識に一歩後ずさった。
「……なんだ、それは。ひどく不気味だ」
テーブルの上に置かれたのは、漆黒の分厚い革で作られた、異様な形状をした仮面だった。
人間の顔の上半分を覆うドーム状の頭部には、暗い色の硝子がはめ込まれた丸い覗き穴が二つ。
そして何より目を引くのは、顔の下半分から前方に長く突き出した、巨大な「鳥の嘴」のような構造だった。無数の縫い目が走るその真っ黒な革の嘴は、まるで地底から這い出してきた怪鳥の顔そのものであり、見ているだけで背筋が粟立つような威圧感を放っていた。
「ペストマスク、というらしい。古い時代の遺物かと思ったが、革のなめし具合と縫製からして、最近、意図的に作られたものらしい」
ジンが木製パイプに火を点けながら言うと、作業台からふらふらと歩み寄ってきたルカのダークブラウンの瞳が、希少な原種を見つけた植物学者のようにギラリと輝いた。
「見事な造形だっ……! 実物の構造をこの目で確かめるのは初めてだよ。ジン、君はなんてものを持ち帰ってくれたんだ!!」
ルカはテオの拒絶反応など完全に無視し、うっとりと目を細めてその不気味な黒い鳥の面を撫でた。
そして、あろうことかその漆黒の嘴の先端に自分の鼻を擦り寄せるようにして、深く息を吸い込む。
「おいルカ、直接嗅ぐな! なんだか得体の知れない濁った匂いが染み付いていそうじゃないか」
「テオ、君は商人としての見識は一流だが、香りの歴史への敬意が足りないね。……微かにクローブと没薬、それに古い樟脳の成分が残っている。これは『香りの防壁』だ。調香の歴史において、極めて重要な意味を持つツールなんだよ」
ルカは隠しきれない研究者としての熱を帯びた声で解説を始めた。
「古い時代、人々は恐ろしい伝染病を『悪臭が運んでくるもの』だと信じていた。だから、病の蔓延る街を歩く者たちは、この鳥の嘴のような空間に、強い香気を持つ香草やスパイス、樹脂をぎっしりと詰め込んで、それをフィルターにして呼吸をしていたんだ」
「香りで、病の気配を防ぐ……?」
テオが胡散臭そうに眉を寄せる。
「結果的にね。悪臭=病魔という誤ったロジックから生まれた防具ではあるが、当時の彼らが嘴に詰めていた樟脳やクローブ、没薬には、実際に強力な防腐作用や虫や動物の忌避効果がある。彼らは経験則から『香りという最強の盾』を顔面に装着して歩いていたんだ」
ルカの解説に、テオは改めてテーブルの上の仮面を見下ろした。
見た目の威圧感は相変わらずだが、それが「命の呼吸を守るための香りの盾」であったと聞けば、確かにただの不気味な装飾品ではない、機能美のようなものが感じられなくもない。
「それにしても、この嘴の内部の空間設計は実に理にかなっている。鼻腔から入る空気の流動を計算し、香気成分が均等に気化するように……」
ルカはそう呟きながら、知的好奇心を抑えきれない様子でペストマスクを両手で持ち上げた。
「……おい。よせ、ルカ」
テオの嫌な予感をよそに、ルカは迷うことなく、その漆黒の鳥の面を自分の頭にすっぽりと被ってしまった。
「やめろルカ。冗談抜きで不気味すぎる。俺の精神衛生上、非常に良くない」
白衣を着た柔らかな印象の青年の顔が、突如として巨大な黒い嘴を持つ怪鳥へと変わる。
そのアンバランスな異様さは、テオの背筋に本能的な警戒心を走らせるのに十分だった。
ベンチの下で寝ていたモカすらも、
「ぽわっ!?」
と驚いてオーク材の棚の裏へと姿を隠してしまった。
「テオ、視界は極端に制限されるが、内部の気流の確保は驚くほどスムーズだ。それに、革の裏地にまだ微かな香りが染み付いている……。ん?なんだ、これは……」
ルカはテオの小言など全く耳に入っていない様子で、嘴の奥にわずかに残る「情報の断片」を感知しようと、微かに鼻を鳴らしながら温室の中をゆっくりと歩き回り始めた。少しでも大気の流れを感じ取ろうとしているのか、ルカは自然と、外の光が差し込むガラス窓のそばへと近づいていく。
ちょうどその頃。
「硝子の庭」の建つ森の入り口、巨大なシダ植物の葉の影に、小さな人影が三つ、息を潜めてうずくまっていた。 下の集落に住む子供たちだった。
「おい、本当にこの奥に怪しい館があるのかよ……」
「本当だってば。兄ちゃんが言ってたもん。ここには、得体の知れない薬を煮込んでるヤバい奴らが住んでるって……」
最近、王都から外れたこの「森の入り口の温室」に興味を持った子供たちは、大人たちの目を盗んで、こっそりと様子を探りに来ていたのだ。
彼らが震えながら、分厚いガラス窓の向こう側の景色を覗き込んだ、まさにその時。
巨大な熱帯植物の深い影から、ぬうっと「それ」が現れた。
真っ白な衣を纏い、顔には漆黒の巨大な鳥の嘴を生やした異形の姿。
それが、ガラスの向こう側で、長い嘴を不気味に上下に振りながら、何かを嗅ぎ回るようにゆっくりと蠢いている。
「…………ッ!!!」
子供たちは、声にならない悲鳴を上げた。
彼らの目には、マスクの構造も、白衣の正体も理解できるはずがない。ただ、森の奥の館で、怪しげな儀式を行っている「黒い鳥の化け物」にしか見えなかったのだ。
「で、出たぁぁぁっ! 鳥の化け物だぁぁっ!」
「逃げろぉぉっ! 匂いで呪われるぞぉぉっ!」
半狂乱になった子供たちは、涙を撒き散らしながら、一目散に森の坂道を転げ落ちて逃げていった。
これが、のちに下の集落から街全体へと広がり、『森の奥には、匂いを操る不気味な鳥の魔法使いがいる』 という、極めて滑稽な都市伝説の、直接的な誕生の瞬間であった。
しかし、当の「黒い鳥の化け物」であるルカは、窓の外で子供たちがパニックを起こしたことなど微塵も気付いていなかった。
彼の異常な嗅覚は今、ペストマスクの分厚い革の奥底に染み付いた「微かな残り香」によって、完全に外界のノイズから切り離され、深い思索の海へと没入していたからである。
不気味なペストマスクの機能美にうっとりするルカ。
勢いで被った結果、まさかの「都市伝説」が爆誕してしまう!?
しかし、その革の奥底には驚くべき「情報の断片」が……。
次回、笑いから一転、物語の核心に触れる中編へ続きます。
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