第15話:不滅の粥と、専属料理人の意地【前編】
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秋の冷たい雨が、頭上のアーチ状の硝子板を一定のリズムで静かに叩き続けている。
夕暮れ時の「硝子の庭」は、天窓から差し込むはずの柔らかな光を厚い雲に遮られ、深い琥珀色の影に沈んでいた。だが、壁際に群生する夜行性の苔が微かな青緑色の光を放ち、温室特有の瑞々しい土の匂いと植物たちの静かな呼吸が、外界の冷気を遮断する確かな結界を作り出している。
温室の奥に据えられたベンチに、この庭の主である調香師が座っていた。
「……ふぅ。どうやら、僕の身体の秩序は無事に取り戻されたようだ」
ルカは緩慢な動作で、傍らに置かれていた丸眼鏡を手に取り、鼻当ての位置を直した。
前夜、彼の肉体をひどく消耗させた「急性発熱」は、マーサの泥臭くも確かな伝承の知恵によって、見事に引き潮のように去っていった。
熱によって引き起こされていた恐ろしい感覚の狂い――植物の香りや大気の匂いが、すべて腐った泥や焦げた鉄の濁った匂いにすり替わってしまう不協和音も、今はすっきりと消え去っている。
ルカが深く息を吸い込むと、湿気を帯びたシダ植物の青さ、古い書物のインクの匂い、そして遠くの棚で乾燥されているラベンダーの静謐な香りが、再び整然とした美しい成分ロジックとなって彼の頭の中に並び直した。
自分が世界を認識するための揺るぎない基準が戻ってきたことへの安堵。ルカは小さく息を吐き、首元へ視線を落とした。
そこには、ルカの命の危機を救うために夜の街を疾走し、その後に最高級のモカ豆の香気を深い養分として摂取した相棒の姿があった。 片手よりも少し大きい丸い毛玉のモカは、今もふんわりとした『桜色の光』を放ちながら、ルカの鎖骨の窪みにすっぽりと収まり、
「すぅ……すぅ……」
と健やかな寝息を立てている。
「君のその桜色の光は、視覚への刺激が極めて少なく、深い鎮静を促す効果があるね。見事な副産物だ」
ルカが細い指先でモカの柔らかな毛並みを撫でようとした、まさにその時だった。
ガァンッ!!
通りに面した頑丈な木扉が、蝶番を軋ませるほどの重々しい勢いで大きく押し開けられた。
雨風がドッと室内に流れ込み、エア・モスが外気に反応して一斉に明滅する。
「ルカッ……!」
怒声のような、悲鳴のような声。
普段は実用性と品格を重んじる洗練された商人のテオが、上質な厚手の外套をずぶ濡れにし、リビングの床を滴る水でベタベタにすることも構わず駆け抜けてくる。
そして、そのまま温室を隔てる硝子戸を勢いよく開け放ち――愕然と足を止めた。
「……えーと。君の帰還は、僕が立てた予測よりも随分と早いね。商談の途中で馬車から転げ落ちでもしたのかい」
ルカがベンチに座ったまま、静かな声で首を傾げる。テオはルカが無事に起き上がり、のろのろと眼鏡を直している姿を見て、その場にズルズルと崩れ落ちそうになった。
「このっ、不器用な唐変木が……!」
テオは濡れた外套を重たげに脱ぎ捨てながら、大股でルカの元へ歩み寄った。
「俺が家を空けている間に無茶をしやがって。出張先でイリスからの伝言を受け取った時の、俺の胃の腑の縮み具合が分かるか!重要な商談の仕上げを最短で切り上げて、休まずに帰ってきたんだぞっ」
「それは……すまなかった。うん。君からジメチルトリスルフィド、強い焦燥と疲労の匂いがしているよね」
ルカは事実を淡々と述べた。
「だけど、マーサの手当てとモカの疾走のおかげで、僕の身体の機能はすでに静けさを取り戻している。君の胃薬を消費する事態には至っていないよ」
相変わらずの素っ気ない言葉を聞いて、テオは
「……よかった」
と、腹の底から絞り出すような深い安堵の息を吐き出した。
ルカの生活環境を整える「防壁」として、自分がいない間にこの脆い天才が深い谷へ落ちてしまうことへの危惧は、テオにとってこの上なく恐ろしいものだったのだ。
とはいえ、ルカももはや30に手が届いたいい大人である。テオが留守にするために準備したもので、なんとかやり過ごしてくれるだろう、そうでなければ…と腹とタカを括っていたところもある。
まさか、こんなに分かりやすく危惧通りの事態になろうとは。
テオが乱れた呼吸を整え、濡れた前髪をかき上げたその瞬間。
彼の鋭い商人の鼻、いや、「専属料理人」としての確かな嗅覚が、温室の空気に混じる『異変』を捉えた。
「……なんだ、この匂いは」
テオの視線が、彼自身の聖域である厨房エリアへと向けられる。
そこから立ち上っていたのは、いつものテオが作る洗練された料理の香りではなかった。
かまどで薪がパチパチとはぜる音とともに漂ってくるのは、野山の生命力に溢れた力強い匂いだった。
土の記憶を残した薬草の苦味、濃厚で野性的な骨髄の出汁、そして何か途方もない熱量の塊のような蒸気が、むわっと温室を満たし始めている。
「まさか……ルカ、お前、俺の厨房で何か危険な調香を……!」
「僕じゃないよ。僕の身体はまだ、フラスコを振る筋力すら回復していない」
テオが警戒しながら厨房へと近づくと、そこには、信じられない光景が広がっていた。
魔女が大釜の中身を混ぜ合わせている…
いや、正確には、小柄な老婆が、テオが愛用している使い込まれた厚手の鉄鍋の前に立ち、腕まくりをして木べらでダイナミックにかき回している。
「……マーサ?」
テオの呼びかけに、この街で数多の命を導いてきた、引退した産婆マーサが
「ふん」
と鼻を鳴らしながら振り返った。
「おお、帰ってきたかい、過保護な坊主。あんたがチンタラ出張している間に、この生活能力のないモヤシが干からびかけてたからね。私が『命の底を支える本物の飯』ってやつを仕込んでやってる最中さ」
その言葉を聞いた瞬間。
テオは濡れた前髪を無造作に撫で付け、スゥッと目を細めた。
「……なるほど。それはご苦労様です、マーサ」
声音から、商人としての愛想が完全に消え去る。
驚愕と安堵に染まっていた彼の纏う空気が、次第に「自らの聖域(厨房)を預かる専属料理人」としてのヒリつくような矜持へと変わり、その端正な眉が僅かに吊り上がった。
ルカの危機を知り、出張先から大慌てで帰還した過保護な支配人・テオ。
しかし、彼の「聖域」である厨房は、レジェンド産婆に乗っ取られていた!?
次回、専属料理人の意地が爆発する中編へ続きます。
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