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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第14話:桜色の吐息と、異国のモカ豆【後編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

宙に浮かんだモカの身体が、吸い込んだ香気に呼応するように、内側から柔らかな光を放ち始めた。


怒った時の赤色でも、悲しみの青色でも、あるいはいつもの琥珀色でもない。


それは、毒々しいサイケデリックなピンク色とは対極にある、春の訪れを告げるような、淡く、それでいてどこまでも温かい光だった。


「……きれいだ」


ルカが、感嘆の吐息を漏らす。


限界までモカ豆の極上の香気を吸い込んだモカは、しぼんでいた身体の繊維を完全に膨らませ、一キログラムのずっしりとした真ん丸なフォルムを取り戻した。


そして、その体色はこれまでに見たこともないほど深く、温かい『桜色の光』へと変化していた。

柑橘の瑞々しさと、大地の発酵臭という複雑な香りの階層を、モカ自身の身体が見事な光のスペクトルとして翻訳してみせたのだ。


「ぷくぅ……」


満足の極みに達したモカは、可愛らしい音で喉を鳴らすと、ゆっくりと空を舞い降り、ルカの首元のシーツの上にふわりと着地した。


桜色の優しい光を放ったまま、完璧な球体となって丸まり、今度は弱々しいものではない、生命力に満ち溢れた


「すぅ……すぅ……」


という心地よい寝息を立て始める。


その見事な変化の過程を、イリスは目を丸くして見守っていた。


「すごい……。こんなに綺麗な色になるなんて」


「ああ。モカの複雑な成分が、このモカの細胞の隅々にまで浸透し、完璧な修復作業を終えた証拠だね。イリス、君の持ってきた見舞い品は、この庭の生態系にとってこれ以上ない特効薬だった。ありがとう」


ルカは、首元で丸くなる桜色の毛玉を愛おしそうに見下ろしながら、心からの礼を述べた。


彼のその穏やかな表情には、かつて恩師から「盾」として託されたこの小さな命に対する、深い信頼と愛情が滲み出ていた。


「ふふ、どういたしまして。名前通りの大好物だったみたいね」


ルカもモカの大好物の正体を知り、満足の笑みを溢れさせた。だが次の瞬間、すかさず弱々しいながらも執念めいた力で、その手をイリスへと伸ばした。


「イリス! もし可能であるならば! ぜひこれの『パーチメント付き(発芽可能な状態)』を仕入れて譲ってくれ。テオにこの温室へ丁寧に植えるよう伝えて欲しい。いや、僕が植えよう! そのための最高の土壌を用意しておくっ!」


イリスは手首を掴んで熱弁するルカの手を、ポンポンと宥めるように反対の手で優しく撫でた。


「ええ、わかったわ。今度、仕入れ先に聞いておくわね。ここで実ったらすごいわ」


ルカの瞳は病み上がりとは思えないほどギラギラとした光を含み、毛玉のモカが放つ桜色を不気味なほど鮮明に映し出していた。

イリスは元気を取り戻せそうでよかったと微笑むと、籐の籠から保温機能の付いた水筒を取り出した。


「さあ、小さな英雄のお腹がいっぱいになったなら、次はルカの番よ。病み上がりの胃に負担をかけないように、特別に抽出温度を落として、苦味を抑えて淹れてきたお茶があるの」


「ふふふ。テオがいない間に、君の淹れる極上の飲み物にありつけるとは。今日はなんて素晴らしい日なんだ」


イリスが白い磁器のカップにお茶を注ぐと、透き通った琥珀色の液体から、ふわりと温かい湯気が立ち上った。


ルカがカップを受け取り、一口飲む。体温に近い温度で抽出されたお茶は、荒れていた粘膜を優しく撫でるように染み渡り、疲労した内臓を芯から温めてくれた。



気がつけば、天窓を叩く音が微かに聞こえ始めていた。


山あい特有の、気まぐれな天気。先ほどまでの柔らかな陽射しは雲に隠れ、外ではまた、静かで細い雨が降り始めている。シトシトという規則的な雨音が、この「硝子の庭」を包んでいた。


温室の中は、モカが放つ桜色の優しい残光と、生豆を潰した時に弾けたモカ豆のフルーティーな残り香、そしてイリスがもたらした琥珀色のお茶の温かさに満たされていた。


「テオくんが帰ってくるまで、もう少しだけ、ここでこうしていてもいいかしら? 雨の音と、この桜色の光……なんだか、とても心が落ち着くの」


「もちろんだ。モカ・シダモの極上の香気と、一切のノイズを含まない君の優しい匂い。……この二つが同席してくれる空間なら、僕の脳もこれ以上なく落ち着くよ 」


世界一鋭い鼻を持つ天才調香師は、ベンチに深く背中を預けた。


相棒であるモカの健やかな寝息の振動を首元に感じながら、隣の椅子に寄り添う優しい匂いに包まれる。


未だ戻らぬ恩師の残した謎は、まだ深い霧の中に隠されたままだ。


だが、今のルカには、この庭で共に生き、己を現世へと繋ぎ止めてくれる確かな存在たちがいる。



外の静かな雨音を聴きながら、ルカは目を閉じ、ゆっくりと、そして深く、自分の呼吸を整えていった。満ちていく安らぎの中で、硝子の庭の時間は、桜色に染まったまま緩やかに流れていくのだった。




ーー怒涛の夜を超え、ようやく穏やかさを迎えた硝子の庭に支配人が帰還し、まさかの料理対決が始まることを、この時のルカはまだ知らない。








次回からは第15話がスタートします。

桜色の光と雨音に包まれた優しい時間も束の間、ついに「環境管理の要」テオが王都から帰還!

なぜか巻き起こる「まさかの料理対決」の行方は!?

次の更新もお楽しみに!



本日もご来店ありがとうございました!

もしこのお話を楽しんでいただけましたら、下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、モカが飛び跳ねて喜びます(作者のモチベーションが爆上がりします)!

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