第15話:不滅の粥と、専属料理人の意地【中編】
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「マーサ。あなたが昨夜、俺の留守中に相棒の命を繋ぎ止めてくれたことには、いくら感謝しても足りません。本当にありがとう」
テオは濡れた白シャツの袖を捲り上げながら、厨房エリアへと足を踏み入れた。
その声と眼差しは深い感謝に満ちていたが、かまどの上の鉄鍋を覗き込んだ瞬間、彼の瞳に「料理人としての静かな炎」が宿った。
「ですが……その鍋の中身はなんだ。俺の厨房で、一体何を煮込んでいるんです」
マーサは木べらで鍋の底をかき混ぜながら、深く胸を張って答えた。
「決まってるだろう。この街で幾つもの命の底を支え続けてきた、伝承の『不滅の粥』さ」
厚手の鉄鍋の中で、重い音を立てて煮えたぎっていたのは、テオが日頃作る引き算の洗練された料理とは対極にある、荒々しい滋養の結晶だった。
マーサは、野生の生命力が強い『苦ヨモギ』や『キナの樹皮』といった、えぐみの強い薬草を惜しげもなく放り込んでいる。さらにそこへ、鴨の骨の髄から半日かけてじっくりと叩き出したという、厚い油膜の張った濃厚な獣出汁が合わさっていた。
「深い熱を出して消耗しきった身体にはね、これくらい確かな野生の力が必要なんだよ」
マーサは木べらでドロリとした液体を掬い上げ、粘度を確かめる。
「薬草の強い苦味で胃腸を目覚めさせて、獣の脂で内臓から無理やりにでも熱を生み出して、残った病の気配を汗と一緒に全部押し流すんだ。命の土台ってのは、肉体と血の巡りだからね」
マーサの言葉には、数多の命の境界線に立ち会ってきた民間療法の大家としての、揺るぎない説得力があった。
だが、ルカの脆弱な胃の腑と粘膜の限界を誰よりも熟知しているテオは、一歩も引かなかった。
「……だめだ。そんな油分が多くて苦味の強い粥は、今のルカの過敏な消化器官には刺激が強すぎる。病を押し流す前に、胃壁が荒れて別の不調を引き起こしますよ」
「なんだと。見栄えの良いだけの軟弱な飯で、命の底力が湧くかってぇんだ」
テオはすかさず、自身の定位置である隣の調理台に陣取り、腰の革エプロンをきゅっと締め直した。
「マーサの恩は一生忘れない。だが、あいつの胃袋の環境管理は俺の管轄だ。こればかりは譲れません」
テオは無駄のない、研ぎ澄まされた動作で調理を開始した。
選んだのは、温室の端で収穫したばかりの瑞々しい林檎だ。それを丁寧にすりおろし、爽やかな酸味を引き出す。そこへ、かつてルカの呼吸を整えた極上のハチミツをたっぷりと加え、純粋で優しい甘さを足す。
さらに、身体を芯からじんわりと温めるための生姜の搾り汁と、ルカが過集中で消費し尽くした脳のエネルギーを速やかに補填するための、消化吸収に優れた特製クラッカーを添える。
「熱で疲弊した消化器官には、計算された保護膜と、脳への直接的な糖分補給が必要です。これが、あいつの生態を健やかに保つための『療養食』だ」
厨房に、二つの相反する香気が立ち上った。
野生の生命力と伝承の知恵がじっくりと煮込まれた、マーサの『不滅の粥』
的確な成分計算と穏やかなケアに基づいた、テオの『療養食』
お互いの「ルカの命を守るための正解」が、狭い厨房の中で静かに、しかし激しい火花を散らし、空間の空気が熱を帯びていく。
「ふふっ、二人とも本当に良い顔をしているわね。なんだか、見ているこちらまで温かくなってきちゃう」
ハーブの乾燥棚のそばに置かれた高いスツールに腰掛け、一触即発の厨房を眺めながら優雅にくすくすと笑っていたのは、自家焙煎珈琲店『ブルーム』のオーナー・イリスだった。
彼女はルカの様子を見守るために残っていたのだが、今はすっかり、二人の料理人の誇りのぶつかり合いを楽しんでいる。
ベンチに座るルカは、厨房から流れてくる二つの匂いに鼻を僅かに動かしながら、
「……テオの静かな怒りのトップノートと、マーサの揺るぎない威厳のラストノートが、僕の嗅覚の階層を激しく揺さぶってくるね」
と、どこか他人事のように呟いていた。
「私が手当てした命を、小賢しい理屈で否定する気かい、若造!」
「ルカの命綱を握っているのはこの俺です!その刺激の強い粥をあいつの胃の腑に流し込むわけにはいかない」
二人の静かな口論が頂点に達し、あわや木べらと銀の匙が激突するかと思われた、その瞬間だった。
カラン。
冷たい雨音を切り裂いて、厨房の勝手口のベルが軽やかに鳴った。
「あー、西の渓谷はひどく冷えたねえ。冷たい雨のせいで、骨の髄まで凍りそうだぜ」
つばの広い革の帽子を被り、肩に積もった雨粒を払いながら入ってきたのは、シードハンターのジンだった。 数日間の深い山でのハントを終えて帰還した彼は、厨房に渦巻く異様な熱気と、火花を散らすテオとマーサの姿を見て、目を丸くした。
「……ん?おいおい。随分と美味そうな匂いが喧嘩してるじゃないか。料理の腕比べでも始まったのか?」
ジンは勝手口の扉を後ろ手に閉め、土間に、採集してきた希少な原種が詰まった大きな麻袋をドンと置くと、雨に濡れた厚手の外套を脱ぎ、懐から木製のパイプを取り出した。
そして、張り詰めた厨房の空気を全く気にする様子もなく、火の点いていないパイプを咥えながら、人の悪い笑みを浮かべた。
「どっちが不器用な調香師を生かすか、なんて揉める必要はないだろう。答えは簡単だ」
ジンは、僅かに毒気を抜かれたテオとマーサを交互に見やって言った。
「この病人に、両方食わせて決めさせりゃいい。……ついでに、山帰りで空っぽになった俺の胃の腑も、その見事な飯で満たしてくれよ」
ジンの野山の風を纏ったマイペースさと、どこまでも野太い余裕に、テオとマーサの気負いが「ふっ」と削がれた。
張り詰めていた空気が一瞬にして弛み、雨音の響く温室に、どこかおかしみのある温かな沈黙が降りたのだった。
野生の生命力が詰まった「不滅の粥」か。
徹底した成分計算と保護膜による「療養食」か。
最高の相棒と最強の産婆による料理対決、果たしてルカの判定は!?
次回、極上の香りが食卓を包む後編へ続きます。
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