第2話:癒やしの花と、青い結晶【前編】
硝子の庭 調香工房で紐解かれていく、依頼人たちの悩みや困りごと。お楽しみいただけたら幸いです。
「硝子の庭」の居候であり、希少な植物の種を追うシードハンターのジンが、新たな息吹を求めて西の山脈へ旅立ってから、3日が過ぎていた。
彼が好んでふかしていた木製パイプの渋い残り香もすっかり揮発し、現在の温室の中はただ深い静寂と、瑞々しい植物たちが放つ生命の匂いだけが満ちている。
天才調香師のルカは、ひんやりとしたテラコッタタイルの床に突っ伏し、ただ無意識に呼吸を繰り返すだけの染みになりかけていた。
思考の焦点はぼんやりと霞み、外界に対する興味は薄れゆく輪郭のように曖昧になっている。過集中による脳のエネルギー切れだ。
「ねぇ、ルカ。そんなところで液状化していたら、買い出しから戻ったテオくんに踏まれるわよ」
鼓膜を心地よく撫でるような、声に艶のある聡明な響きが上から降ってきた。
ゆっくりと顔を上げると、自家焙煎珈琲と雑貨の店『ブルーム』のオーナーであるイリスが、あきれたような、けれどどこか慈しむような微笑みを浮かべてルカを見下ろしていた。
彼女が動くたび、身を包むワインレッドのブラウスと黒のロングギャルソンエプロンが柔らかな衣擦れの音を立てる。耳元で小さく揺れるピアスが、彼女が抱えている珈琲豆の袋に光を落としていた。
「……テオの足音なら、あと50歩手前で振動の波形として感知できるよ。それに、今は起き上がるためのエネルギーの変換効率が悪すぎるんだ。タイルと同化して最小限の力で命をつなぐ、この静かな作業の邪魔をしないでほしいな」
「はいはい、天才調香師様は今日も省エネなのね。本当に、テオくんとジンさんがいないと、この温室は時が止まったみたいだわね」
漆黒のウェーブヘアを上品にまとめたイリスが、琥珀色の瞳を細めて呆れ混じりに溜息をついた。
と、その時、玄関の扉が、かすかに軋むような音を立ててゆっくりと開いた。
「あら、どうしましょう…。ルカ、この温室にお通ししてもいいのかしら?テオくんの帰りを待ってもらった方がいい?」
「う、ん。だい…じょ…ぶ…かな?」
ルカはタイルと別れを決めたようだ。
「とりあえずお通しするわよ」
イリスが日頃から自店で接客業をしているにこやかさで玄関に向かい、依頼人を温室に案内して来た。
「あの……。こちらで、特別な香りを……作っていただけると、伺って……」
若い仕立て屋の女性だった。
彼女の持つ籠の中には、真珠のような光沢を放つ美しい絹の布地が、丁寧に畳まれて収まっていた。
籠を持つ手には、仕立て屋であることを示す指先の細かな針傷、顔には若い年齢には不釣り合いなほど濃い隈があり、彼女が現在置かれている状況を物語っていた。
ルカはヨロヨロとテーブルの脚を掴みながら立ち上がり、何事もなかったかのような顔を取り繕って女性と向き合った。
「えと…あの…。調香師さん、でしょうか?」
不審げな目で尋ねる彼女の質問は、この状況でもっともなものだった。
「うん、調香師のルカだよ。何かご用かな?」
つい今しがたまで液体のように床に溶けていた男が、猫のような髪をなるがままに跳ねさせながらも悪びれることなくニコリと微笑む姿に、女性は躊躇いを隠せずにいた。すかさずイリスも微笑む。
「ごめんなさいね。今、支配人が買い出しに出かけているの。こちらがこの工房の調香師で間違いないわ。こう見えて腕利きなのよ。私は、留守番のような者で。中央の自家焙煎珈琲店をやっているイリスよ。さぁ、どうぞ、こちらにお掛けになって」
しっかりなさい、と言いたげに盛大な笑みをルカに送りながらイリスがギャルソンエプロンを微かに揺らしてテーブルに案内する。
女性はおずおずとベンチに腰を掛けた。手にしていた籠をそっと置きながら、伏目がちにルカの様子を伺っていた。
「お名前を伺ってもいいかしら?」
イリスの柔らかな物腰に、ルカを見定めようと注視していた女性は、はっとしたように顔を上げた。
「あ、私は中央の仕立て屋のお針子で…アネットといいます」
「アネットさん、素敵なお名前ね。ひたむきにコツコツと針を動かしているのね」
珈琲色に指先を染めたイリスが自らの手をテーブルに載せて、アネットのお針子独特の手を愛おしむように見つめた。アネットの肩から少し力が抜けて、一つ呼吸をすると依頼を口にし始めた。
「仕事の効率を上げたり集中力をもっと上げる香りが欲しいんです。」
ルカはきょとんとした目を隠すこともせずにアネットの言葉を待った。
「あの…私の仕立てを気に入って下さった方が紹介してくださっているのか、お預かりする仕事が増えていて…。…恥ずかしながらなかなか追いつかないんです」
ぽつりぽつりと依頼を話す女性の声が、温室の静けさを小さく震わせた。ルカはふっと左上に視線を走らせた後、アネットの目の前まで静かに歩み寄り、パーソナルスペースなどお構いなしに鼻先を彼女の首筋の近くまで寄せた。
「っ……」
女性が小さく息を呑む。
「ぽわ?」
ルカの足元で、アンゴラウサギのような毛玉――モカが不思議そうに鳴いた。
モカは小さな黒い瞳で女性を見上げると、空間に漂い始めた『強いストレスと焦燥』の匂いに反応し、
すぅぅぅ……と微かに鼻先を鳴らした。
「……これはなかなかの不協和音だね」
ルカは亜麻色の髪をかき上げ、彼女から立ち上る匂いの構造を解体して、成分分析のメタファーに乗せて呟き始めた。
「表面を覆っているのはアイロンから立ち上るアルデヒドとウールの清潔な香り…『非の打ち所のない仕立て屋』というトップノートだけど、ずいぶんと擦り切れているね。こびりつくミドルノートは、ジメチルトリスルフィド…周囲からの期待、急ぎの納品、自分の技術へのプライド…かな?いわゆるストレス臭。「過剰負荷の残骸」といったところだ」
突然過ぎる解説と分析に、自分を責められたように感じたアネットの肩には再び力が入って固まった。その様子を視界に入れながらもルカはさらに淡々と続ける。
「君は今、他人の体裁という『ローカルルール』のために、自分の魂の成分を削りすぎているんじゃないのかい?」
無遠慮なルカの言葉にアネットは傷だらけの指をぎゅっと握りしめ、なにを……と声を漏らした。
ルカはなおも続ける。
「眠気を飛ばす刺激臭なんて、作るのは簡単なんだ。でも今の君にそんなものを処方すれば、三日後には君の心身のシステムが根元から崩壊する。抽出の終わった絞りカスになりたいなら、別の店に行くといいよ」
事実を事実として静かに告げただけのルカの言葉だが、女性は弾かれたように後ずさり、籠の中の絹布を強く握りしめた。
「……っ。でも、私は。せっかく私の仕立てを気に入って下さったのだから…。そう、期待に応えなきゃいけないんです。 貴族の奥様方のドレスも、大商人の方々の夜会服も、全部私が仕上げるとお約束したんです。だから……!」
ーーー限界を超えてなお、他人の期待のために自分をすり減らそうとするアネット。
頑なに閉ざされた彼女の心を、ルカの【生態ロジック】はどう解きほぐすのか。
次回、中編へ続きます。
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