第1話:ペトリコル・ハーブと、琥珀の結晶【後編】
えもんです。
本日より『硝子の庭の調香師』の連載をスタートしました。
第一部完結となる36話まで、既に書き上がっておりますので、途中で止まることなく毎日更新していきます。
疲れた日の癒やしや、美味しいご飯の足しにしていただければ幸いです。
小瓶の蓋を開け、小さく香りを吸い込んだエドモン。
不意に、視界の境界が優しく滲んでいく。
目の前にあるはずの硝子張りの温室の景色が薄れ、三十年前の遠い記憶が、色彩豊かに立ち上がってきた。 そこは、王都の豪華な応接室でも、果てしない数字が羅列された帳簿の前でもない。
何者でもなかった少年時代。故郷の赤茶けて、ひび割れた乾いた大地だった。
空が掻き曇り、激しい夏の夕立が降り注ぐ。
乾ききっていた土が、大粒の雨を吸い込んで、むせ返るような大地の底力を思わせる匂いを立ち上らせていた。どこに生えていたのかと思うような濡れた草葉の青さ、泥のひんやりとした冷たさ、肌を叩く激しい水滴の感触。
「っ……」
少年だったエドモンは、衣服が泥まみれになるのも構わなかった。乾いた大地に注ぐ雨粒を身体いっぱいに浴び、腕を広げ、ただ純粋な歓喜を胸に、叫びながら走り回っていた。
あの頃の彼は、誰かと競い合う必要も、笑顔で牽制し合う環境に身を晒す必要もなかった。
ただ、生きているということ。雨が冷たくて心地よいということ。大地の匂いが力強いということ。そのすべてが、彼の五感を満たしていた。
それこそが、エドモンが長い人生の旅路において置き去りにしてきてしまった、もっとも純粋で、もっとも瑞々しい記憶の原風景だった。
「何もかもが痛快……」
エドモンは目を見張った。
乾いた瞳には潤いが戻り、光が宿り始めている。これまで一人で背負い込んできた虚飾や、果てしない焦燥、明日の損失への恐怖ーー。それらが霧散して、焦点も戻り始めていた。
やがて、温室の硝子屋根を叩く雨音が静かに遠のいていくのと重なるように、エドモンの硬直も解けてゆき、張り付いていた汗を上質なハンカチで拭った。
「そうか。…いや、そうだった」
声には確信を得た力強さがこもっている。
「なぜ、信頼を積み重ね、必死に商売を営んできたのか。生活のためだけじゃない。あの雨の日のように、世界に驚いて、世界と新しく触れ合っていたかったからじゃないか。ああ、そうだ…」
大商人としての聡明な歯車がカチリとはまり込む音が聞こえた気がした。
彼は自身の手を、まじまじと見つめる。故郷の赤茶けた土、その感触と匂い。彼の頭の中で商人として培ってきた実行力や広大なネットワークと五感が次々に噛み合っていく。
「……そうだ。通気性と保湿性に優れている、あの土。王都の息詰まる石造りの建築群に、『呼吸する土壁』として新しい建材を流通させるのはどうだ…。『特産の陶器』にして手軽に売るのもいい。そうだ、悪くない!」
1人で呟くエドモンのあまりの変容ぶりに、テオは言葉を失っていた。大商人の顔には血の気がさしこみ、さらに饒舌になっていく。
「そうだ!これなら、私が今まで築き上げてきた交易網も活かせるし、何より、私自身が故郷の大地とともに歩むことができる。うん、そうとも。悪くないぞ、これは!」
エドモンはむくりと立ち上がると、一刻も無駄にできないといった性急さで帰り支度を始めた。
「ルカ殿、テオ殿、そしてジン殿。ありがとう!いや本当に、心からの感謝を!ああ、そうだ。これでいかようにも決済してくれたまえ。私は急ぐので、これで失礼!」
エドモンはテーブルに金額無記入の手形を置くと、憑き物が落ちたように忙しない足取りで扉を開けて去っていった。
その背中からは、錆びた銅貨の匂いがすっかり消え去っていた。
――エドモンの気配が消えた瞬間、ルカの背筋から、すうっと力が抜けた。テラコッタタイルの床にへなへなとへたり込んだ。
「テオ……僕はもう、正体が分かって揮発しきった匂いに一ミリグラムの興味も残っていない……それに彼の最後のあの変化は一体何だ。理解が及ばなくて脳のエネルギーも今度こそ空っぽだ。もう睫毛を動かすことさえできないよ……」
過集中が終わったあとの、いつもの崩壊状態だった。調香師としての威厳はどこへやら、今の彼はただのエネルギー切れを起こしたタンパク質の塊である。
「ああ、おつかれ」
テオがすかさず、深煎り珈琲豆が詰まった小さな布袋を、グダグダになっているルカの鼻先へ突きつけた。 香ばしく力強い珈琲の匂いがルカの鼻腔を叩き、彼の嗅覚受容体をカチリとリセットしていく。
「うう……生き返る……。でも…やっぱり動けない……」
「甘えるな。ほら、行くぞ」
テオは手慣れた動作で、腑抜けたルカの両脇をガシリと抱え上げた。ズルズルと革製のスリッパが床を擦る情けない音が響く。ルカは温室を抜け、洋館一階のパーテーションの裏にあるリビングへと、容赦なく引きずり出されていった。
安楽椅子にルカを放り込んだテオは、温室に戻り、太い真鍮製の天窓換気レバーをぐっと引き下げる。
ガシャガシャ、ガシャガシャ。
歯車が小気味よく噛み合い、連動する真鍮の骨組みが一斉に動いて、天井の大きな硝子天窓が開放された。雨上がりのひんやりとした夜気と、濡れた森の木々の匂いが温室へと滑り込んでくる。
「さて、日常の帰還だな」
テオはリビングに隣接する厨房に向かった。
温室の熱源と接続されたかまどの上では、大きな鍋が静かに湯気を立てている。常時、一定の熱が伝わり続けるため、朝、鍋に材料を放り込んでおけば、じっくりと時間をかけて煮込み料理が仕上がるのだ。
テオがゆっくりとお玉で鍋の底を混ぜると、コトコトと心地よい音が響き、ハーブと柔らかなジビエの肉が放つ芳しい香りがリビングいっぱいに広がった。
丸テーブルの上に並べた素朴な器に、温かい煮込みが注がれる。ジンもバックパックを置いて当たり前の顔で席についた。
「相変わらずいい腕だな、テオ。山で食う即席の干し肉スープと、えらい違いだ」
ジンが木製のスプーンを動かしながら微笑む。
「ジンが届けてくれるジビエや種子のおかげだよ。いつも助かってる。それにルカがまた実験に没頭する前に、しっかりと栄養を補給しておいてもらわないと、また俺が面倒な目にあうからな」
テオは恨めしげにルカへと視線を送るが、ルカはニコリと笑ってスプーンを持ち上げるだけだ。
「しかし、あの御仁、結局立ち止まることはしないのな。霧は晴れたようだから、まぁ止めはしないが。俺にはできん選択だよ」
呆れたようなジンの言葉に、脳のエネルギーが戻り始めたルカは、シチューのジビエとコロコロとした根菜を分けるようにスプーンを浸しながら答えた。
「生存戦略は個体それぞれ、ってことなのかもしれないね」
テオはあの手形にいかほどの金額を入れるのが妥当なのか、頭の中の算盤をはじき始めて碌に聞いていない。ジンはシチューの根菜を口に運びながら、そうだなと笑った。
穏やかな夕食が終わると、丸テーブルの足元で、アンゴラウサギのようでありながら手足のない毛玉が
「ぽわ」
と小さく鳴いた。モカである。
モカはずっしりとしたお餅のような体をぽんと跳ねさせると、黒い瞳をきらめかせながら、エドモンが残した香りや料理の残り香に向かって、口を大きく開けた。
すぅぅぅぅぅ――。
空間に漂う微細な匂いの分子が、モカの体内に吸い込まれていく。生成り色の美しい毛並みが、一瞬だけじわりと赤茶の色を帯びた。 モカの喉の奥で、小さく「コロン」と心地よい音が響く。
モカがゲップの代わりに口から吐き出したのは、普段通りの琥珀色の丸い結晶だった。床の上を転がったそれを、テオが慣れた動作で拾い上げる。
「ふむ、今日の質は意外と悪くないな。これなら来週の温室の燃料にはなりそうだ」
テオは結晶の輝きを透かすように見つめ、ほっと胸を撫で下ろすような微笑みを浮かべた。
モカの深呼吸によって、リビングは瑞々しい『朝露の香り』を纏った空間へと鮮やかにリセットされた。
こうして硝子の庭 調香工房は、静かに明日の足音を待つように、深い静寂に包まれていった。
――若い仕立て屋の女性が、この硝子の庭の扉をギィと音を立てて押したのは、ジンが再び山へ旅立った3日後のことである。
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明日からは12:10、20:10の2回ずつ更新を予定しています。これからも、『硝子の庭 調香工房』の面々が繰り広げる、香りと生態の世界をお楽しみください。
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