第13話:主なき庭と、小さな灯火【後編】
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通りに面した玄関の扉が、「ガァン!」と音を立てて大きく押し開けられた。
「ルカ! 息はしているかい、この大馬鹿者!」
夜の温室の静寂を切り裂いて響き渡ったのは、マーサの容赦のない、しかし確かな焦りを孕んだ声だった。
彼女は手にしたランプの温かい明かりを頼りに、巨大な熱帯植物の深い影を抜けてズカズカと温室に足を踏み入れ、冷たいテラコッタの床の上で意識を失いかけているルカを発見した。
「……ま、あサ……」
「喋るんじゃないよ。今は息をすることにだけ集中しな」
マーサは小柄な身体からは想像もつかない見事な手際で、ルカの細い身体を抱え起こし、温室の奥に設えられたベンチへと、引きずるようにして運び上げた。
数多のお産と命の現場を取り仕切ってきた彼女の判断力と筋力には、一切の無駄がない。
「ひどい熱だ。それに、この泥だらけの白衣はなんだい。これじゃあ熱がこもって身体が参っちまうよ」
マーサはルカが着込んでいた小さな染みだらけの白衣を素早く、しかし的確な手つきで脱がせ、汗で肌に張り付いた生成りのコットンシャツの胸元を広げた。
そして、温室の棚に常備されていた解熱作用のあるハーブ(薄荷と白柳の樹皮)を乳鉢で瞬時にすり潰し、持参した手拭いに包んで冷たい水に浸した。
「冷たっ……!」
「我慢しな。命の火が燃えすぎている時は、こうやって物理的に熱の逃げ道を作ってやるのが一番なんだよ」
マーサは出来上がった『特製の湿布』を、ルカの額、両脇、そして首の太い血管の真上に迷いなく当てた。
強烈な清涼感と、薬草の生々しい土の匂いが、ルカの狂いかけていた鼻腔を通り抜ける。
ドロドロに溶け落ちていた匂いのグリッドに、『薄荷』と『白柳』という泥臭くも確かなクサビが打ち込まれ、バグを起こしていた世界にピタリと焦点が合った。
それは、ルカが普段行う緻密な計算による『調香』のような洗練された美しさは微塵もない、ただ生きるための、泥臭く力強い生命の匂いだった。
だが、その伝承の知恵、生活ケアこそが、ルカの暴走していた体温を確かに奪い、肉体を物理的に鎮めていく。
さらにマーサは、自身が調合して持参していた、胃腸に負担をかけずに吸収される塩分と糖分を含んだぬるま湯を、木製のスプーンで少しずつルカのひび割れかけた唇へと流し込んだ。
「いいかい、ルカ。あんたの鼻がどれだけ優れていようとね」
マーサは、深い藍色の瞳でルカを見つめながら、低く、慈愛に満ちた声で言った。
「香りの理屈や、脳へのアクセスだけじゃあ、己の風邪一つ治せやしないんだよ。人間の身体ってのはね、香りの階層や成分データなんかで出来てるんじゃない。血と肉と、日々の温かい飯と睡眠で出来てるんだ。命の土台を軽んじるんじゃないよ」
マーサの言葉は、ルカの胸の奥底にすとんと落ちた。
そうだ。自分の調香は、他人の精神の淀みを一時的に晴らすことはできても、自分自身の細胞の熱を下げ、肉体を直接治癒するものではない。
命の境界線に立った時に自分を救ってくれるのは、テオが作る温かい食事であり、このマーサのような、命の現場を知り尽くした者たちの確かな「手当て」なのだ。
数時間後。
マーサの手厚く的確なケアによって、ルカの高熱は次第に下がり始めていた。浅かった呼吸は穏やかなリズムを取り戻し、青白かった顔に少しだけ血の気が戻っている。
「……ふん。どうやら、まだあんたの鼻はこの世界に必要だったみたいだね」
マーサが目尻のシワを深くして安堵の息を吐き、温室の中央にある太い真鍮製レバーを引いた。
「ガシャガシャ」と歯車が重厚な唸りを上げて噛み合い、天井の換気システムが作動する。夜空に向かってガラスの天窓が一斉に開放され、冷たく新鮮な空気が温室へと流れ込んだ。
同時に、壁に群生している夜行性の苔が微かに黄緑色に光り始め、ルカの強烈な発熱によって澱んでいた空気を急速に浄化していく。
マーサの手提げ籠で休んでいたモカも、元の生成り色に戻り、残ったわずかな病の匂いを
「すぅぅぅぅぅ」
と吸い込んで、喉を「コロン」と鳴らし、透明な琥珀色の結晶を吐き出した。
温室の空気は、すっきりと清々しい『朝露の香り』へとリセットされていた。
「……マーサ。それにモカも……ありがとう」
ベンチに横たわったまま、丸眼鏡を外した素顔のルカが微かに微笑んだ。
バグを起こしていた脳内の情報は消え去り、植物たちの整然とした成分ロジックが、静かな図書館のように再び美しく並び始めている。
「やっぱり……僕の調香じゃ、僕自身の細胞の不具合は書き換えられないんだね。あなたたちの、命の土台への確かなアプローチには、どうやっても敵わないよ」
「当たり前さ。あんたは医者でも神様でもない、ただの不器用な調香師なんだからね。……さあ、テオが帰ってくるまで、大人しく寝てな。また無茶をしたら、今度こそたっぷりとお灸を据えるからね」
「それは勘弁して」
ルカが弱々しく笑う。
マーサの揺るぎない手当てと、温室に広がる瑞々しい朝露の香りに包まれながら。 ルカは小さく息を漏らし、久しぶりの深く、健やかな眠りへと落ちていった。
自分が扱う「香り」の役割と、この街で命を繋ぐ者たちの明確な境界線。
それを優しくも鮮烈に心に刻みながら、硝子の庭の主は、夜明けの柔らかな光の中で、過不足のない静かな呼吸を繰り返していた。
ーーーマーサから事の顛末を聞きつけた焙煎士のイリスが、心配そうに温室の扉を叩き、モカの謎に迫ることになるのは翌日の話である。
次回からは第14話がスタートします。
ルカを救った不思議な同居人「モカ」。
心配して訪れたイリスによって、ついに謎多き毛玉の秘密が明かされる!?
次の更新もお楽しみに!
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