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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第14話:桜色の吐息と、異国のモカ豆【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

硝子張りの温室は、前夜の激しい緊迫感が嘘のように静まり返っていた。


雨上がりの穏やかな昼下がり。天窓の向こうには薄く雲が掛かっているものの、アーチ状の真鍮の骨組みと硝子板を透かして、真珠のように柔らかな光がテラコッタタイルの床へと降り注いでいる。


壁際に群生する夜行性の苔(エア・モス)と、換気システムの静かな働きによって、温室に澱んでいた熱の気配はすっきりと浄化され、瑞々しい『朝露の香り』へとリセットされていた。



温室の奥のベンチの上で、ルカはゆっくりと身を起こした。


マーサによる泥臭くも確かな伝承の知恵――的確な水分の補給と薬草の湿布――によって、ルカの身体を焦がしていた強い熱は静まり、脈拍は穏やかなリズムを取り戻している。

まだ身体の芯に微かな気怠さは残っているものの、感覚器官をひどく狂わせていた恐ろしい不協和音は完全に消え去っていた。


植物たちの静かな呼吸や土、そして雨上がりの湿気を帯びた空気の匂いが、再び整然とした美しい成分ロジックとなって彼の頭の中に並び直している。


「……ふぅ。どうやら、僕の嗅覚の階層構造は無事に維持されたようだ」


ルカは傍らに置かれていた丸眼鏡を手に取り、ノロノロと掛け直した。視界が明瞭になると同時に、ルカの瞳は、自身の枕元で丸くなっている小さな同居人へと向けられた。



片手サイズ、重量一キログラムの謎の毛玉――モカである。


普段はアンゴラウサギのように柔らかく豊かな毛並みを持ち、穏やかな生成り色を保っている不思議な生き物。しかし今のモカは、内なる活力を使い果たしてしまったかのように、一回りほど小さくしぼんで見えた。その毛並みは、空間を浄化した後の見事な琥珀色でもなければ、危険を報せる赤色でもなく、どこか不透明な灰色がかっている。


「すぅ……すぅ……」


立てる寝息も、いつもよりずっと細く弱い。


昨夜、ルカの放つ熱を自らの小さな体内へ吸い上げ、自身の生態を脅かすほどの勢いで夜の街を疾走したのだ。その代償は、この小さな生き物にとって決して軽いものではなかったはずだ。


「モカ。君の命がけの行動には、深く感謝しているよ。ただ、君の生態系のリズムが著しく低下している。何か、質の良い糧を補給しないと……」


ルカが細い指先で、灰色がかったモカの毛並みをそっと撫でた、その時だった。



カラン、と。


通りに面した頑丈な木扉に取り付けられた真鍮のベルが、優しく、控えめな音を立てて鳴った。


「あら、ごめんなさい。休んでいるところにお邪魔してしまったかしら」


心地よい声と共に温室へと足を踏み入れたのは、自家焙煎珈琲店『ブルーム』のオーナーであるイリスだった。


ワインレッドのブラウスを揺らして彼女が歩みを進めるたび、上質なジャスミンの香気と、深く焙煎された珈琲の芳醇な残り香が、優雅な衣擦れの音とともに空間へふわりと広がる。

その深い包容力を感じさせる香りの階層は、過敏になっている病み上がりのルカの鼻腔にも、決してノイズにならない心地よいトップノートだった。


「イリス……。テオなら、出張でしばらく不在だ」


「ええ、知っているわ。今日は彼に用事があったわけじゃないの」


イリスは上品に微笑みながら、腕に提げていた大きな籐の籠を丸テーブルの上に置き、ルカが横たわるベンチの傍らへと歩み寄った。


その瞬間、ルカの枕元で灰色になっていたモカの鼻先が、ピクリと微かに動いた。

籠の中から漂う『何か』の気配に、命の底で反応しているようだった。


「今朝、お店を開ける前にマーサさんのところへ寄ったのよ。そうしたら、昨夜の顛末を聞かされてね。この小さな英雄が、自分の身体を燃やすようにして夜の街を跳んで、あなたを救い出したのだって」


イリスの眼差しは、ルカの傍らで丸くなる灰色の毛玉へと向けられていた。彼女の涼しげな目元には、愛おしさと深い労わりの色が浮かんでいる。


「彼がいない間に、あなたが無理をして倒れているんじゃないかって、私も心配はしていたのだけれど。まさか、この子が命がけでマーサさんを呼びに行くなんて。……どうしても放っておけなくて、お見舞いを持ってきたの」


「モカに?」


「ええ。小さな英雄と、無茶をした調香師にね」


「わざわざ、ありがとう。だが、マーサの力強い手当てのおかげで、僕の身体の危機はすでに去っている。あとは失われた養分を摂取するだけだ」


「ふふ、相変わらず可愛げのない減らず口ね。でも、安心したわ」


イリスはルカの強がる言葉にクスリと笑うと、そっとベンチの端に腰を下ろした。そして、彼女の視線は再び、しぼんでしまったモカへと注がれる。


「ルカ、この子は、本当に不思議な生き物ね。……大丈夫なの? なんだか、毛並みの色が抜け落ちてしまっているように見えるけれど」


その問いに、ルカは丸眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、静かな口調で小さな相棒の生態についての解説を始めた。






命がけでルカを救い、すっかり灰色の毛玉になってしまったモカ。

果たして、この不思議な同居人の「生態系の秘密」とは……?

次回、ルカの謎多き過去にも触れる中編へ続きます。



本日もご来店ありがとうございました!

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