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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第10話:ふたつの果実と、サピエンスの庭【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

真鍮の骨組みが支えるアーチ状の硝子屋根を、名残の雨滴が規則正しいリズムで叩いている。


夕立が通り過ぎた後の温室は、むせ返るような緑の吐息で満ちていた。濡れた土の匂いと、熱帯植物たちが一斉に放つ濃厚な水分が光を乱反射させ、巨大な硝子張りの空間は淡い白緑色に霞んでいる。


「テオ。この空間に満ちた水蒸気の膜が、僕の呼吸の邪魔をする。植物たちの蒸散作用が活発なのは喜ばしいことだけれど、これでは僕の思考回路まで苔生してしまいそうだ。調香室へ避難しようと思うのだけれど」


エア・モスのほのかに光る壁の傍らで、ルカは真っ白な白衣を着たまま、オーク材のベンチにだらりと背を預けていた。丸眼鏡の奥のダークブラウンの瞳で、恨めしそうに硝子の天井を見つめている。


「お前が調香室に籠もると、過集中で戻ってこなくなるだろう。今日は王都から予約の依頼人が来ているんだ」


プレスされた上質な白のシャツに、テーラードジャケットを羽織ったテオは、背筋をすっと伸ばしたまま手元の帳簿を閉じ、静かにたしなめた。スマートな佇まいは、こんな湿度の高い日でも一切崩れることはないが、幼馴染であるルカに向ける声には、遠慮のない呆れが滲んでいる。


「来客? ああ、そういえば誰か来ていたね。けど……彼らの間には、ひどく尖った匂いが漂っている。雨上がりの森に持ち込まれた、研がれたばかりの刃物のような、息の詰まる香りだ。僕の鼻には少し、刺激が強すぎる」


ルカの視線の先――温室の入り口近くに設えられた別の木製ベンチには、一組の若い夫婦が座っていた。


夫のアレンと、妻のエマ。そしてエマの腕の中には、厚手の布に包まれた、生後数ヶ月の赤ん坊が抱かれている。彼らは赤ん坊連れにも関わらず、王都の中心部から馬車に揺られてわざわざ森の入り口にあるこの洋館までやってきた依頼人だった。


しかし、彼らの間に流れる空気は、ルカが指摘した通り、酷く張り詰めている。


二人は隣同士に座っていながら、決して目を合わせようとしない。アレンは仕立ての良い上着の袖を無意識に強く握りしめ、エマは赤ん坊を抱きしめながらも、その美しい顔に濃い疲労の色を浮かべて唇を真一文字に結んでいる。


「王都の大商会で働く幹部候補と、優秀な経理担当らしい。」


王都では今、「自立と平等な役割分担」という思想が正義としてもてはやされていた。男女ともに働き、家事も育児も半々に割り振る。誰かに頼ることは能力不足、夫婦二人だけで家庭という城を築き上げることが、優れた人間の証であるかのように言われている。


「重圧に、息切れしているようだな」


テオの静かな言葉に、ルカは丸眼鏡の位置を指先でそっと直し、ゆるゆると立ち上がった。


「すべてを均等に切り分ける暮らし、か。それはずいぶんと、自然の理から外れた無謀な試みだね」


ルカは白衣の裾を軽く整えながら、凪いだ水面のような声で呟いた。


「自立だとか平等なんてものは、ここ数百年で人間が勝手に作り上げた『文化の流行り病』に過ぎないんだ。ホモ・サピエンスという種は、本来もっと不器用で、互いの欠落を補い合いながら群れを維持してきた生き物だ。それなのに彼らは、頭で作り上げた均等のシステムという枠組みに、自分たちの柔らかな生態を無理やり押し込めようとしている」


ルカの語る言葉はいつものように動植物のロジックに満ちていたが、今回はどこか、傷ついた生き物を静かに観察するような深い眼差しがあった。


「いいから、話を聞いてやれ。赤ん坊が窮屈そうだ」


テオに促され、ルカは音もなく夫婦の座るベンチへと歩み寄った。


ルカが近づいたことにも気づかず、二人の間では再び、低く押し殺したような諍いが始まっていた。


「だから言っただろう、エマ。今日の夜間会議は外せないって。君が少し持ち堪えてくれれば済む話だ。僕だって、君と同じだけ疲れているんだ」


アレンは自分とて面倒だと感じている会議に、エマの許しを得ないと行けないことに徒労感を覚えて、重く掠れた溜息をつく。


「持ち堪える? 私ばかりが負担を背負っているじゃない。あなたはオムツの替え時も、ミルクの適温も、全部私に指示を仰ぐでしょう。等分に負担する約束だったのに、これじゃあ私があなたという、もう一人の子供まで抱え込んでいるみたいだわ」


今は休職せざるを得ず、日中は言葉も通じない、同じ食事をするわけでもない特殊な生態の赤ん坊に対峙しているエマが、聞き捨てならないとばかりに噛み付く。


「君が求める基準が高すぎるんだ。僕は僕なりに必死にやっている。どうして少しは認めてくれないんだ」


互いの言葉が、見えない刃のように交差する。二人の体から発散されるすり減った心の匂いが、重苦しい温室の空気をさらにどんよりと濁らせていく。


「ぽわ……」


ふいに、ベンチの足元から弱々しい鳴き声が聞こえた。アンゴラウサギのような生成り色の毛玉――モカである。


普段は空間の匂いを吸い込んで完全無臭にリセットしてくれる不思議な同居人だが、今は様子が違った。夫婦の放つ強烈な焦燥の匂いを過剰に吸い込んでしまった結果、モカは小さな身体を小刻みに震わせ、ひどく苦しそうに喉を鳴らしている。


「モカが消化不良を起こしてる。あなたたちの放つ不協和音は、この庭の静謐な生態系に、少しばかり負荷をかけているようだ」


荒立つことのない、静かな波のような声が、二人の頭上から降ってきた。 アレンとエマが弾かれたように顔を上げる。そこには、亜麻色の髪から柔らかな光を透かし、深みのある穏やかな瞳で二人を見下ろす調香師が立っていた。


「僕はルカ。この硝子の庭の調香師だ。あなたたちの言葉にならない結び目は、その香りが僕に教えてくれている。……さあ、ひどく張り詰めたその糸を、少し解きほぐしてみようか」


ルカの静かな水面を思わせる眼差しに射抜かれ、アレンとエマは呆然と瞬きをした。 突然目の前に現れた青年に核心を突かれ、二人は一瞬、自分たちが何を言われたのか理解できなかったのだ。


しかし、張り詰めた糸に触れられたことで、隠していた痛みが再び表面に浮き上がってくる。


「……糸を解きほぐす、ですって? 私たちは…ただ夫が約束した責任を果たさないから……!」


「違う! 僕は果たしている。君がすべてを一人で抱え込もうとして、僕の不器用なやり方を頭から否定し続けているだけだ!」


互いが己を守るための防壁に、再び火がついたようにぶつかり合う。その鋭く尖った声に怯えたのか、エマの腕の中にいた赤ん坊が、火が付いたように激しく泣き始めた。


「フギャア、アァァ!」


生命力に溢れながらも助けを求めるような産声が、水分を含んだ重苦しい温室の空気をびりびりと震わせる。


「泣き止ませて、アレン。 あなたが大きな声を出すから!」


「君だって怒鳴っただろう! ほら、貸してくれ……ああもう、どうして泣き止まないんだ!」


慣れない手つきで赤ん坊を受け取ったアレンは、ぎこちなく腕の中で揺らすものの、赤ん坊の泣き声はさらに大きくなるばかりだ。


二人の焦燥感というトップノートが限界まで膨れ上がり、ベンチの下では、キャパシティを超えたモカの生成り色の毛並みが、消化不良を起こしたようにちかちかと不規則に明滅し始めた。


その時だった。


「やかましいねぇ。新米の鳥だって、もう少しマシな巣作りをするってもんだよ」


鬱蒼とした野原へと続く温室の勝手口が開き、ガラガラとしわがれた声が緑の空間に響き渡った。


そこに立っていたのは、草木染めのシックなロングドレスに身を包み、手編みの小さな籠を提げた小柄な老婦人――この街の生き字引であり、数多の命を取り上げ引退した産婆、マーサだった。


関節痛の薬草をもらいに訪れた彼女は、深い藍色の瞳で鋭く夫婦を見据えると、迷うことなくアレンに近づき、木製の杖をベンチに立てかけて、その腕から赤ん坊をひょいと奪い取った。


「あっ、何を……!」


「黙ってな。この子はね、あんたたちが着込んでいる『冷たい鎧』の匂いに怯えてるんだ」


マーサは赤ん坊を優しく胸に抱き、皺の刻まれた手で背中をトントンと一定のリズムで叩きながら、かすかな声で子守唄を口ずさみ始めた。


その手つきは、魔法のようだった。ほんの数十秒前まで激しく泣き叫んでいた赤ん坊が、ふっと力を抜き、すぅすぅと穏やかな寝息を立て始めたのだ。


「…ほら見な。命ってのは、理屈じゃないんだよ。あんたたち、頭でっかちになりすぎて、大事なもんを忘れてやしないかい?」


マーサの言葉には、生死の境界線を幾度も潜り抜けてきた者にしか出せない、深く揺るぎない重みがあった。









「平等」という理想に押し潰され、限界を迎えていた若い夫婦。

泣き叫ぶ赤ん坊を魔法のように鎮めた、この小柄な老婦人の正体とは?

次回、天才調香師と大自然の代弁者が夫婦の本音を丸裸にする中編へ続きます。



最後までお読みいただきありがとうございます!

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皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。

明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

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