第10話:ふたつの果実と、サピエンスの庭【中編】
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「…ほら見な。命ってのは、理屈じゃないんだよ。あんたたち、頭でっかちになりすぎて、大事なもんを忘れてやしないかい?」
マーサの言葉には、生死の境界線を幾度も潜り抜けてきた者にしか出せない、深く揺るぎない重みがあった。
その沈黙の間に、ルカは音もなく歩み寄り、夫婦の顔を覗き込んだ。丸眼鏡の奥の瞳は、透き通った観察者のそれだった。
「マーサの言う通りだ。あなたたちの放つ香りの階層を紐解けば、隠された本質はすぐに分かる。……エマ。まず脂肪酸やラクトンといった『母乳由来の甘い香り』と『清潔な石鹸の香り』というトップノートが漂っているけれど、その下から滲み出ているミドルノートは――極度の睡眠不足と敵対心が生み出す、研がれた刃物のようなすり減った匂いだ」
自分の献身と疲れの根拠を裏付けてくれる発言に、エマは満足そうに頷く。しかしルカの言葉は終わっていなかった。
「そして、それらが揮発した後に残る、あなたのラストノートは…酪酸だね。『孤立への恐怖』といったところ。誰に後ろ指さされることのない母親、社会人であらねばならないという重圧のなかで、誰にも弱音をこぼせず、たった一人で小さな命を背負う孤独に震えているんじゃないかな」
エマはハッと息を呑み、美しい顔を歪ませて両手で口元を覆った。ワインレッドの唇が震え、華奢な肩が微かに上下し始める。
「そしてアレン。あなたのラストノートには、濁った甘さのインドール。それから衣服の奥には、それと真逆の、凶暴なほどの獣の匂い3-メチル-2-ヘキセン酸。『認められない無力感』と『巣を守る重圧』だろうか。外敵から家族を守らなければならないというオスとしての本能的な重圧を抱えながら、さらに、本来の生態から外れた均等な育児まで求められ、息継ぎをする水面を見失っている状態とみえる」
ルカの容赦のない香りの分析に2人とも虚を突かれたように目を見開いていたが、アレンが鎧を外しにかかる方が早かった。アレンは胸の奥底に何重にも掛けられていた分厚い錠前を静かに解錠し、額に両手を寄せた。
「……そうだ。そうなんだよ。ルカさんの言う通りなんだ。こんなことは、今まで誰にもこぼせなかった。」
アレンの声に涙が滲み始める。
「僕は……怖い。仕事で綻びを見せれば、家族を養うための居場所を失うかもしれない。その恐怖と戦って、家に帰れば理想の父親として振る舞わなければならない。少しでも間違えれば、エマに落胆される。そして昼間の育児をエマに任せている分、夜泣きの対応は僕の役割だ。……僕には、もう……息を吐き出す場所が、逃げ場がどこにもないんだ……!」
それは、大人の「正義」と「平等」という虚飾の鎧の奥底で、ずっと声を上げられずにいた、アレンのオスとしての本能の悲鳴だった。
エマはルカの分析にも驚きと怒りを覚えつつも、これまで見たことも聞いたこともない夫の姿に戸惑いが隠せない。
やがて、静かな嗚咽の声を聞きながら、彼女は初めて理解する。隣にいる夫がどれほどの孤独と恐怖の中で戦いながら、不器用に寄り添ってくれてきたのか。
「アレン……。…あなたも、私と同じくらい……息が詰まっていたのね」
二人の間に漂っていた殺気立った香りが、少しずつ、柔らかな悲哀と安堵の入り混じるミドルノートへと形を変えようとしていた。
「その通りだ。たった二人だけで何から何まで補える人間など、この世のどこにも存在しねえ。サピエンスの歴史がそれを証明している」
不意に、温室の奥にある巨大な熱帯植物の深い影から、渋みのある低い声が響いた。
木製のパイプの紫煙を燻らせながら姿を現したのは、「硝子の庭」の同居人であり、希少な植物の種を追うシードハンターのジンだった。彼の大柄でタフな身体からは、野を越え山を越えてきた風の匂いと、土深くに眠る太古の種子の気配が微かに漂っている。
リビングに通じる 温室の入り口では、騒ぎを聞きつけてリビングから顔を出したイリスが、テオと並んで固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
「いいか、若いの。俺たちホモ・サピエンスが、この過酷な自然界をどうやって生き延びてきたか分かるか?」
ジンはパイプを咥えたまま、静かな足取りでアレンとエマの前に立った。
「古代のサバンナで、メスが妊娠や出産という大激変を迎えている間、オスは外敵から巣を守るために傷を負った。だが、それだけじゃない。人間が種として生き残れた最大の理由は、育児という莫大なエネルギーを要する重労働を、夫婦二人という狭い囲いの中だけで抱え込まなかったからだ」
ジンは深く煙を吸い込み、ゆっくりと、木漏れ日の差す温室の天井へ向けて吐き出した。
「アロパレンティング――共同体育成ってやつだ。母親以外の群れの仲間が、みんなで赤ん坊の面倒を見た。周りにヒョイと預けて、メスは休息を取り、オスは生きるための糧を集めることに集中した。人間ってのは元来、群れで命を共有するように進化してきた生物なんだよ。たかだか数百年で出来上がった『二人だけで隙なく育てろ』なんていうシステムのほうが、生物学的に見てよっぽど不自然なのさ」
ジンの言葉は、長い年月をかけて降り積もった山の腐葉土のように、どっしりとした温かい説得力を持っていた。アレンとエマは、その言葉にすがるように顔を上げる。
「こーーら、ジン! 赤ん坊のそばでそんな臭い煙をモクモクさせるんじゃないよ! このバカたれが!」
感動的な静寂を切り裂くように、マーサの容赦のない一喝が飛ぶ。
「あっ、すんません!」
と、先ほどまでの大自然の代弁者のような威厳はどこへやら、ジンは慌ててパイプの火を消し、大きな背中を丸めてシュンと肩をすくめた。
そのあまりの落差に、ずっと傍らで様子を見守っていたテオが、ふっと口元を押さえて噴き出しそうになるのを必死に堪えている。
張り詰めていた温室の空気に、ようやく、人間らしい温かな隙間が生まれた。 その心地よい温度の変化を見逃さず、ルカは丸眼鏡の位置を指先でそっと直し、再び静かに口を開いた。
「さて。それでは、あなたたちの歪んだ生態系を、本来の健やかな形へと戻すための調香を始めよう」
人間が過酷な自然界を生き延びてきた最大の理由「共同体育成」。
孤独な夫婦の歪んだ生態系を戻すため、ルカが取り出した素材とは。
次回、太古の記憶が蘇る感動と、まさかの事実が発覚する後編へ続きます。
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