第8話:美しき劇薬と、覚醒の果実【後編】
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「――っ!?」
瞬間、ベラドンナの妖艶で、しかし背筋が凍るほど鋭利な香気が、乾燥した温室の空気を切り裂くように一気に広がった。それは、優しさや安らぎとは無縁の、脳髄を直接揺さぶる『美しき劇薬』の香り。
「――表面を飾る『有能な新人』という虚飾のトップノートが揮発した後に残る、本当のラストノート」
静まり返った温室に、ルカの平坦な声だけが静かに落ちる。
「他人の視線という幻影に怯えるだけの時間は、これで終わりにする。君の脳内に響く雑音を切り捨て、自分自身の『現在地』を直視する、剥き出しの覚醒の香りだよ」
成分が嗅覚神経を突き抜け、彼女の神経網に強烈な干渉を引き起こす。
ティルダの瞳孔がカッと見開かれた。
その瞬間、ティルダを苛んでいた「期待している」「失敗するな」という幻聴のようなざわめきが、嘘のようにピタリと鳴り止んだ。
「あ……」
視界に飛び込んできたのは、他人の冷たい視線ではない。
色鮮やかな植物たち、ひんやりとしたテラコッタタイルの床、そして何より――自らの腕を抱きしめ、ボロボロに擦り切れて、血の気すら失せている『自分自身の青白い手』だった。
過剰な緊張が絶たれ、静寂とクリアな視界がもたらされたことで、彼女はようやく最も重要な事実を自覚したのだ。
「私……こんなに、手が震えて……」
膝にのせていた書類鞄がどさりと床に落ちた。
「ずっと……息が、苦しかったんです。先輩たちの目にどう映るかばかり考えて……自分がどれだけ疲れているか、気づこうともしなかった……っ」
自分自身の痛みと真正面から向き合った瞬間。彼女の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。
「私……無理をして頑張る自分に、酔っていたのかもしれません……。これだけやってるんだからって……。……馬鹿みたいですね 」
ひとしきり涙を流したティルダは、膝に置かれた自分の青白い手を見つめる。
「……私、明日からどうやって仕事をすればいいのか、まだ全然わかりません。きっとまた、先輩の顔色を窺って震えてしまうんだと思います」
ティルダは自嘲するように小さく笑い、そっと書類鞄を拾い上げた。
「でも……もう、無理をして自分を誤魔化すのはやめます。自分が震えていることだけは、ちゃんと見てあげようと思います」
そう言って床に落ちていた書類鞄を丁寧に拾い上げ小さくお辞儀をしたティルダの顔からは、不自然に上がった口角の硬直は消え、挑戦的に見えていた表情も消えていた。
「……ラストノートまで揮発しきったようだね」
劇薬による強制覚醒を終え、客を送り出した途端、ルカの思考回路から急速に熱が失われていく。過集中が解けたルカはグダグダと床に崩れていった。
「だめだ……神経伝達の緻密な計算に、僕の脳のエネルギーが底をついて……。緊急措置として、脳がブルブルするほどの甘いものを……」
「おぅ、おつかれ。紅茶、間に合わなくてすまん。」
ルカの鼻先に、抗いがたいほどに甘酸っぱく、そして香ばしい焼き菓子の匂いが遠慮なく突きつけられた。
片手に焼き菓子と紅茶がのったトレイを持ったテオは
「ほら、食いたかったら自分で起きろ」
と残った手でルカの白衣の襟を掴む。ルカはふんふん鼻を鳴らし、ジンに半ば抱えられながらリビングへと這っていった。
ガコン、と重い真鍮のレバーが引かれる心地よい音が響く。
テオがレバーを引いて歯車を回し、天窓の換気システムを起動させる。「ギギギ……」と唸りを上げて窓が開き、夜の涼やかな風が温室に吹き込んだ。
同時にエア・モスが一斉に淡い燐光を放ち始め、息苦しく乾燥した空気は、少しずつ新鮮な外気へと吸い出されていく。
「さあ、遅めの夜食にしよう。今日は『ダークチェリーのクランブル』だ。さっき焼き上がり間近だったから一緒に持っていこうと思ってたんだが」
テオがテーブルの中央に置いた耐熱皿には、深く艶やかな紫の色彩を放つ大粒のチェリーが隙間なく敷き詰められ、甘いそぼろ状のクランブルがたっぷりとのっている 。
「小麦粉とバターの焼けた香りに、チェリーの野性味のある酸味。素晴らしい色彩と味覚の調和だ……!」
「能書きを垂れてないで、脳みそが完全に干からびる前にさっさと食え」
テオが呆れながら、イリス特製『ブルームグレイ』の紅茶を白磁のカップに注ぐ。ベルガモットの華やかで凛とした柑橘の香りが、ダークチェリー甘酸っぱさを上品に包み込んだ。
ザクザク、という軽快な咀嚼音とともに、ダークチェリーの濃厚な果汁の甘みが口いっぱいに広がる。枯渇していたルカのエネルギーも、極上の糖分によって急速に満たされていった。
「自分の限界を知らねえ奴は、いつか必ず致命傷を負う。……あのお嬢さんは、命拾いしたと思うぜ」
ジンは無精ひげにチェリーの雫を光らせながら、「確かな歩み」を取り戻した若者への、静かなエールのような笑みを浮かべる。
「そうだね。他人の目を気にして無理をして走るより、自分の歩幅で歩く方が、はるかに遠くまで行けるものだからね」
ルカは紅茶を一口含み、深く息を吐き出した。
食事が終わり、甘い余韻がテーブルを包んだ頃。
彼らの足元で、
「ぽわぁぁ……」
と小さく穏やかな音がした。
モカが床を弾むように移動し、空間に残されていたティルダの『重圧と恐怖』の残香、そしてクランブルの甘い匂いの名残を、小さな口から
「すぅぅぅ……」
と一息に吸い込んでいく。
お腹を少しだけ膨らませたモカは、満足げに目を細めると、喉の奥で「コロン」と愛らしい音を鳴らした。
ぽとっ。
床に転がり落ちたのは、小粒ながら深く透き通ったアメジストのような美しい結晶だった。
「うん、悪くない。これはうちの保留材に使おう」
テオが金属のトングで手際よく結晶を回収する。
同時に、温室の空気は、瑞々しい夜露の香りへと心地よく塗り替えられていた。
外は完全な夜の闇に包まれていたが、温室の中には確かな光と、五感を満たす極上の香りが満ちていた。
___『硝子の庭』は明日も通常営業。人々の悪意も絶望も届かない、そんな日常になるはず、である。
次回からは第9話がスタートします。
「人々の悪意も絶望も届かない日常になるはず、である」――。
果たして、静寂の温室に次に訪れる事象とは?
次の更新もお楽しみに!
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