↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/96

第9話:職人たちの通常営業と、頁に忍ぶ香り【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

王都の喧騒から離れた森の入り口。

鬱蒼と茂る緑に守られるようにして佇む『硝子の庭』には、今日も変わらず穏やかな時間が流れていた。


空は高く澄み渡り、天窓から差し込む柔らかな木漏れ日が、幾重にも重なる植物の葉をすり抜けて、テラコッタタイルの床に美しいまだら模様を描き出している。


今日は、命を脅かすような厄介な事件も、王都の裏側で蠢く人々の悪意も届かない日。ただ植物たちの静かな呼吸音と、葉擦れの音だけが満ちている、硝子の庭の「通常営業日」であった。


たまに訪れる個人の依頼人のヒアリングを行う温室の一角の机の上には、今日は無骨で厚手な植物タンニンなめし革の端切れと、手触りの良い上質な手漉きの厚紙がいくつも広げられていた。


「……なるほど。王都の文具店からの新規企画というわけだね」


やや猫背気味の背中を丸め、鼻先が触れそうなほどの距離で厚紙の繊維をじっと観察しながら、ルカが銀縁の丸眼鏡を押し上げた。 やわらかな栗色の跳ね気味の猫毛が、天窓からの光に透けてふんわりと輝いている。


机を挟んで向かい側に座るテオは、背筋をすっと伸ばしたまま、手にした革の質感を確かめていた。


「ああ。中央通りにある、創業百年を超える老舗文具店からの依頼だ」


テオは手元の帳簿に万年筆でスラスラとメモを書き込みながら話し始めた。


「彼らが秋の新作として打ち出したいのが、『香る栞(しおり)』と『手帳カバー』だ。王都の貴族や裕福な商人、あるいは学府の研究者たちがメインターゲットになる。先方の要求は、読書や執筆の邪魔にならない程度の、さりげない香り付けだ」


「読書と執筆のための香りか……」


ルカは厚紙から顔を上げ、今度は分厚い革の端切れを手に取った。目を閉じ、その表面に鼻を近づけて深く息を吸い込む。


「……問題は、ベースとなるこの素材たちが持っている固有の香りとの干渉だね。この栞が挟まれるであろう、書物の鉄ガロンインク特有の酸化した渋みと鉄の匂い。そして、このタンニンなめしの革が放つ、樹皮の渋みと微かな獣の脂の匂い。テオ、この革は随分と良質なものを使っているね」


「先方の指定だ。安物の薬品なめしでは、時間が経った時に香りが変質する恐れがあるからな。だが、その分、素材の自己主張が強い」


テオは腕を組み、真剣な眼差しでルカを見つめた。


「インクの渋みと、革の獣臭。これらをどう殺さずに、かつ、集中力を高めるようなハーブの香りを仕込むか。それが今回のハードの仕様になる」


ルカは丸椅子の上で胡座をかき、脳内の膨大な香りのアーカイブに静かにアクセスした。


「……強い香りで上書きしようとするのはダメだね。強い香りは読書のノイズになり、インスピレーションを阻害する。だから、革の獣臭やインクの渋みそのものを、『ベースノートの一部』として取り込む数式を組むよ」


ルカの硝子玉のような瞳に、職人特有の深い没入の光が灯る。


「集中力を極限まで高めるなら、ローズマリーの鋭い青気に、ほんの少しのベルガモットの酸味。……革の獣臭と調和させるために、微量のシダーウッドで木の香りの橋渡しをする。そうすれば、古い書斎の書架の間に漂うような、静謐で知的な空間を小さな栞の上に構築できるはずだ」


「そうか」


テオは小さく頷き、手元のメモに追記した。


「香りの定着率の検証が終わったら、明日、革細工工房の爺さんのところへ行ってくるよ」


「ああ、あの気難しいお爺さんのところ?」


ルカが苦笑いを浮かべる。


「気難しいが、腕は確かだ。この分厚い革の繊維の奥深くまで、お前の作った香液をどう均一に染み込ませるか。そして、香りを飛ばさずにプレスや縫製ができるか。爺さんの技術で、安定した数が生産できるかを確認してくる」


夢を語るルカと、現実を構築するテオ。 彼らの仕事はどこまでも現実的な「商いと職人のロジック」に裏打ちされていた。原価計算、素材の選定、職人同士のネットワーク、そして量産への落とし込み。そのすべてが噛み合って初めて、一つの製品が世に出回るのだ。


「分かった。生産体勢の確保はテオにお任せするよ。じゃあ、まずはプロトタイプの香液を組んで、この革の端切れと紙で定着テストをしてみよう」


ルカは丸椅子からゆっくりと立ち上がり、白衣の裾を翻した。 温室の隣りにある、調香室へと向かう。 穏やかな日差しの下、静かで美しい通常営業の歯車が回り始めていた。






文具店からの依頼で挑む、「本の頁に忍ぶ香り」。

普段は脱力系のルカが、調香室の扉を開けた時――その空気が一変する。

次回、天才調香師の「本気」の仕事が描かれる中編へ続きます。



最後までお読みいただきありがとうございます!

もし少しでも「面白い!」「続きが気になる」「お腹が空いた」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】(星)を押して応援していただけると嬉しいです!

皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。

明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。