第8話:美しき劇薬と、覚醒の果実【中編】
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組織というローカルルールの中で自己価値を見失った人間の、典型的なパニックだ。
「しかし…ルカの言う通りだぜ、お嬢さん」
温室の奥――夜行性の月見草が淡い黄色の花を咲かせる暗がりから、紫煙とともに渋みのある低い声が響いた。
使い込まれた木製パイプをくゆらせながら姿を現したのは、シードハンターであり硝子の庭の居候でもあるジンだった。彼は山の冷たい夜風の気配を纏わせたまま、ゆっくりとティルダの前に歩み出る。
「他人の期待に応えるために、自分の限界を無視して命まで担保に差し出す。……そいつは、努力とは言わねえ。ただ考えることをやめ、他人に手綱を渡しているだけだ」
「考えることをっ、やめている……っ?こんなにっ、頑張っているのに」
またボロボロと涙がこぼれ、しゃっくりをしながら訴える。
「そうだ。他人の評価ってのは、山の天候と同じで自分じゃどうにもならねえ。それに振り回されて、自分がどれだけ疲弊しているか傷ついているかを見ようとしていない。自分の足元から目を逸らして、ただ他人の言いなりになっているだけだ」
ジンさんの言葉はさらに手厳しく、冷徹に彼女の認知の歪みを突き刺した。しかし、その声の底には、厳しい自然界で幾度も死線を超えてきた者だけが持つ、命に対する重く確かな敬意が滲んでいた。
ティルダは言葉を失い、ぐっと拳を握りしめたまま呆然とジンを見上げた。張り詰めていた「完璧でなければならない」というティルダの鎧が、少しずつ音を立てて崩れ始めていた。
「……処方の方針は決まったよ」
ルカは少し跳ね気味の亜麻色の髪を揺らして踵を返し、温室の隣りにある分厚い磨きガラスの扉――外部の匂いがと遮断された調香室へと歩みを進めた。
「今の彼女に単なる覚醒の香りを与えるのは、火に油を注ぐようなものだ。彼女に必要なのは、まとわりつく雑音を消し去って、自分の現在地を直視させるための『美しき劇薬』」
ルカは羊革のマスクを装着して、調合台の奥、厳重に錠が下ろされた木棚を開けた。そこに安置されているのは、扱いを間違えれば人の命すら奪いかねない、極めて刺激の強い成分を含んだ植物たちの抽出液だ。
ルカが手に取ったのは、深い紫色の液体が揺らめく一つの遮光小瓶。
「――ベラドンナ」
古くから、貴婦人たちが自身の瞳を美しく魅せるために用いたとされる魅惑の毒草。その主成分であるアトロピンは、神経の緊張を強制的に解き、瞳孔を大きく開かせるという極めて強力な薬理作用を持つ。
現在の彼女の脳内は、周囲の期待や視線という「他人の声」を拾いすぎた結果、処理の限界を超えてパニックに陥っている状態だ。この狂いを正すには、優しく寄り添うような香りでは意味がない。
視覚的、そして神経的な覚醒を物理的に引き起こし、意識の焦点を「他人の目」から「自分自身の足元」へと強制的に引き戻す、鋭利な荒療治だ。
刺激の強さを一滴の狂いもなく計算し、強すぎる成分を中和するための微量のエッセンスを複雑に絡め合わせていく。決して人を壊すための毒ではない。
完成した『ベラドンナ・エッセンス』を手に、ルカは扉を開け温室に戻った。
ベンチでは、女性がまだ自らの腕を抱きしめたまま、見えない重圧に怯えて小刻みに震えている。
ルカは無言のまま彼女の目の前に立ち、紫色の液体が揺れる小瓶の栓を、躊躇なく引き抜いた。
「――っ!?」
瞬間、ベラドンナの妖艶で、しかし背筋が凍るほど鋭利な香気が、乾燥した温室の空気を切り裂くように一気に広がった。それは、優しさや安らぎとは無縁の、脳髄を直接揺さぶる『美しき劇薬』の香り。
他人の視線に怯える彼女に処方されたのは、優しさではなく「猛毒」。
脳髄を揺さぶる美しき劇薬は、彼女に何を見せるのか?
次回、鮮烈な覚醒と極上のスイーツが待つ後編へ続きます。
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