第8話:美しき劇薬と、覚醒の果実【前編】
いつもお読みいただきありがとうございます!
『硝子の庭』を包み込んでいた淡い夕光は、いつしか濃紺の帳へと静かに塗り替えられていた。温室のアーチ状の硝子屋根越しに見える空は、深い藍色から漆黒へと沈んでいく。
昼行性の植物たちが葉を閉じ、夜の静寂に身を委ね始める時間帯。しかし、今夜の温室内の空気は、心地よい夜の帳とは程遠い、息苦しい淀みに支配されていた。
焦げ付いた古い羊皮紙と、すり減った歯車から零れ落ちた金属の粉が混ざり合ったような、乾燥した匂い。それは空間の瑞々しさを奪い、呼吸をするたびに肺の奥をチリチリと焼くような錯覚を引き起こさせる。
夜行性の苔であるエア・モスが、淡い光を放ちながら懸命に空気の淀みを分解しようと明滅を繰り返しているが、その浄化の速度を上回る重い「焦燥」の気配が、空間全体にねっとりと張り付いていた。
天才調香師のルカは、ひんやりとしたタイルの床に倒れこんで、焦点の定まらない目で硝子屋根の向こうの星の瞬きを数えていた。
「……テオ、もう駄目だ。温室内の気流の乱れと、乾燥による摩擦熱で、僕の思考を司る脳内物質が蒸発しつつある。早急に、適切な湿度調整と脳への糖分補給を要求する」
「お前の頭が干からびるのは、ただ単に床で怠けているからだ。気流のせいにするな」
背後から呆れ返った声が降り注ぎ、次の瞬間、埃まみれになったルカの白衣の襟首が容赦なく掴まれた。若き支配人、ルカの壊滅的な生活能力を補う幼馴染のテオである。
彼は「よっこらせ」という重労働のような掛け声とともに、床と一体化しようとしていた幼馴染をズルズルと引きずり起こした。そのエプロンのポケットからは、いつも通り胃薬の薬包紙の乾いた音が聞こえる。
「お客さんだぞ、ルカ。……かなり、危うそうだな。」
「こんな時間に?いや、こんな時間だからか。」
テオの少しトーンの落ちた真剣な声に促され、ルカはずり落ちかけた銀縁の丸眼鏡を直し、渋々視線を前方へと向けた。
テオが玄関から温室に案内してきたのは、若い女性だった。仕立ての良い、しかしどこか彼女の華奢な体には少し大きすぎるような、真新しい事務服に身を包んでいる。この街の中央に位置する、大きな商会に採用されたばかりの新人事務員といったところだろう。
彼女の顔色は、月の光を吸い込んだように青白かった。両手で抱え込んだ分厚い革の書類鞄をきつく握りしめている。不自然に目が見開かれ、口元は無理に口角を上げようとしているのだろう。右だけが上がって挑戦的に見える。
「今日はやけに乾いた一日でしたね。よろしければ、こちらをお使いください」
テオが丁寧な所作で椅子を進め、女性に麻布を差し出す。麻布は温室の熱源で温めてあり、ほのかにゼラニウムが香っている。
本当は自分の乾いた顔を潤したくて用意していたのだが、こんな宵口にこの場所まで訪ねてきた女性に、口を開いてもらうには丁度よいだろう。女性は躊躇いながらもその布を受け取ると、強張った手のひらを包み込む。
「あ……」
小さな吐息が漏れた。 濡れた熱が、硬く縮こまっていた指先の皮膚をじんわりと解いていく。彼女はまだ重く肩に力が入ったままだが、躊躇いがちに話し始めた。
「あの……。私は街の商会で働いております、ティルダと申します。その…願いを叶える調香師さんがこちらにいると伺って。」
「こちらが調香師のルカです。こう見えて…。腕は支配人の私が保証します」
白衣に染みついた植物や精油の跡など微塵も気に留めない、そんな隙だらけのルカの佇まいを目にして、ティルダの緊張はいくらか和らいだようだった。そして掠れた声で依頼を口にする。
「調香師さん。どうか、私に『有能になる香り』をください。要領よく仕事をこなせる力が欲しい。……失敗をしない、強くて鋭い香り…。お願いします、調香師さん。私は、もう……」
悲痛な懇願が、乾燥した温室の空気に吸い込まれていく。
『有能になる香り』など作れるものなら、自分も使ってみたい気もする。しかし世の中はもっと効率化されて、それによってもっと殺伐とするのかもしれない。テオはぶるっと背筋を震わせた。
ルカはゆっくりと立ち上がり、少し跳ね気味の亜麻色の髪を揺らしながら、ティルダに歩み寄った。例によってパーソナルスペースなどお構いなしだ。そして、ティルダの怯えた瞳のすぐ近くへと鼻先を寄せた。
「っ……!」
「ぽわぁっ……」
ルカの足元で、モカが苦し気な声を出した。普段は生成り色に淡く光る柔らかなアンゴラウサギのような毛並みが、身をよじるようにして波打って深紫色に濁っている。
空間に漂う『激しい重圧と恐怖』の匂いに、モカが深く同調したようだ。
「……ひどい不協和音だね」
ルカはダークブラウンの瞳を細め、彼女から立ち上る匂いの構造を解体し始めた。
「澱みなく仕事をこなす『有能でタフな新人』というトップノートは、すでに揮発しきっているね。香水や真新しい制服を纏って周囲の期待に応えようと必死なのかな」
「揮発しきっている…」
ティルダはおうむ返しに言葉を反芻する。不自然に上がっていた口角が硬直した。
「そして、君のミドルノートにこびりついているのは、ペンタンだね。細胞が過度なストレスで破壊されると呼気に混ざるガスだよ。 限界を超えて焼き切れた神経の匂いとでも言っておこうか」
「ガス…そんな…私、そんな匂いをさせているなんて…」
ルカは気にせず続ける。
「そしてラストノート。君の奥底から香ってくるのは、アリルメルカプタン かな。他人の評価や視線という、実体のない嵐に怯えて震えている、謂わば小さな草食動物の匂いだ。君の心は、他人の評価という熱風に当てられて完全に干からびている。だから温室がこんなにも焦げ臭く乾燥しているんだね 」
ルカの容赦ない指摘に、女性は弾かれたように椅子の上で後ずさる。
テオはポケットの胃薬の包を指で確認しながら、ルカの言葉で傷を深めるティルダを強制的に落ち着かせるための方法が必要だと思った。鎮静のハーブティーを淹れなければ 。
「ルカ、待て。失礼しました、ティルダさん。今、熱いお茶をお淹れしますね。」
テオは慌てて厨房に向かう。ルカは黙っていた。しかし、結果的にルカの元に残されることになったティルダは、追い詰められた小動物が威嚇をするように早口でまくしたて始めた。
「私がダメなことはわかっています!でもっ。でも、私ががんばるのをやめたら、私の居場所がなくなってしまう! 毎日、先輩たちの厳しい視線が私を監視するんです。『期待してるよ』と言ってくれているけど、本当はどう思っているのかなんて分からない!まるで呪いです……。 期待にも失望にも…応えられない私は…私には、価値なんて…ない…」
自分を守るための『有能な新人』という重い鎧と、慣れない武器を必死に振り回したものの 、自らの手が傷んで取り落としてしまったようだ。ティルダはボロボロと涙をこぼし、それは嗚咽に変っていった。
組織というローカルルールの中で自己価値を見失った人間の、典型的なパニックだ。
「期待」という名の呪いに押し潰され、自分を見失った新入社員。
パニックに陥った彼女に、過酷な自然を知るあの男が静かに歩み寄る。
次回、魂を揺さぶる言葉が響く中編へ続きます。
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし少しでも「面白い!」「続きが気になる」「お腹が空いた」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】(星)を押して応援していただけると嬉しいです!
皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。
明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!




