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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第7話:濁った硝子板と、水底の記憶【後編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

「……ラストノートまで揮発しきった感情の機微に、もう興味はないな」


環境の変化という化学反応の理を提示し終えた途端、ルカの思考回路から急速に電流が失われていく。 視界がぐらりと歪む。彼は再びひんやりとしたタイルの床で歴史の染みに還ろうとした。


「だめだ……カルシウム濃度の計算に、僕の限られたエネルギーを消費してしまった……。このままだと視界が黒く塗りつぶされて、全身の機能が停止する。……早急に、海産物由来のタウリンを……」


「おう、おつかれ。相変わらず見事な分析だが、その極端な燃費の悪さだけは、どうにかならないか。せめてお客様の前で崩れ落ちるのやめて欲しいんだが」


ジンの登場で温室を離れ、厨房で夕食の仕込みをしていたテオが、呆れ顔でルカの鼻先に、深煎り珈琲豆の入った麻袋を遠慮なく突きつけてきた。


「むぐぐ……あ、ありがとテオ…」


「ほら、立て。…ダグ様、大変失礼致しました。」


腑抜けたルカの脇を抱え、テオがズルと椅子に戻してやる。ダグはルカの突然のダウンに一瞬驚きを見せたが、まったく気に留めずに礼を口にした。


「ルカ殿、テオ殿。本当に、目が覚めた。実に助かったよ」


晴れやかな顔を取り戻したダグが、カラカラと笑う。


「わしは明日、さっそく新しい井戸を掘り直す手配をしてくる。環境としての水が変わったのなら、それに合わせて現像液の調合比率も一から見直せばいい。……わしはまだ、こんなところで引退などしてはいられないのだ」


ダグは白く濁った硝子板を「これは初心を忘れないための戒めにする」と大切そうに分厚い革の鞄にしまい、しっかりとした力強い足取りで夜の街へと帰っていった。


ガコン、と重い真鍮のレバーが引かれる音が響いた。 テオが天窓の換気システムを起動させる。「ギギギ……」と心地よい唸りを上げて窓が開き、ひんやりとした夜風が吹き込む。


温室内のエア・モスが一斉に淡い燐光を放ち始め、空間に充満していた酸性の淀んだ空気は、少しずつ新鮮な外気へと吸い出されていく。


「さあ、お前のすり減った視神経を修復するための遅めの夕食にしようぜ。今日は『干貝アサリのクラムチャウダー、ハーブクルトンのせ』だ」


テオがテーブルの中央に置いた深皿からは、豊かな海の恵みを凝縮したような濃厚な香りが湯気とともに立ち昇っていた。


海辺の商人から手に入れた干貝は、森の入り口に住むテオ達にとって貴重な海産物ストックになっている。


温室の熱源を利用してじっくりと火を通されたスープは、牛乳とバターのまろやかなコクの中に、干されたことで凝縮されたアサリの旨味と、タイムの爽やかな青い香りが絶妙な調和で溶け込んでいる。


スープをたっぷりと吸い込んだカリッと香ばしい手作りクルトンが、抗いがたく食欲を刺激してくる。


「素晴らしい……! このアサリから溶け出した豊かなタウリンの香りが、僕の網膜の細胞膜を直接修復していくのが分かるよ」


ルカは少し跳ね気味の亜麻色の髪を揺らし、大真面目な顔でスプーンを握って熱々のスープを一口飲んだ。滋味深い旨味が疲弊した全身の細胞にじわじわと染み渡り、急速に彼を生き返らせていく。


「お前は本当に、飯を食う時まで理屈っぽいんだな」


テオが濃紺の瞳を細め、少し得意げに笑いながら白磁のカップに琥珀色の紅茶を注ぐ。


「しかし、あの大将も大したもんだ。環境のせいにせず、水が変わったなら井戸も掘るし技術も見直そうってんだからな」


木箱に腰掛けたジンが、無骨な手でクラムチャウダーを掬いながら続ける。


「本物の職人は、いつだって何度でも立ち上がれる。……俺が持ち帰った酸っぱい木の実も、いい仕事をしたみたいだしな」


「ジンの採取能力の高さは認めるよ。だも、もう少し甘味の強い果実も持ってきてくれたら嬉しいけどね」


「そうだな。ここに持ち込みゃ腕のいいのが美味いものにしてくれるしな」


軽口を叩き合いながら、賑やかで温かな食卓を囲む。


食事が終わり、深い余韻がテーブルを包んだ頃。 彼らの足元で、


「ぽわぁぁ……」


と小さく穏やかな音がした。

モカがダグの『焦燥と絶望』の残香と、濃厚なクラムチャウダーの匂いを、


「すぅぅぅ……」


と一息に吸い込んでいく。

お腹を少しだけ膨らませたモカは、満足げに目を細めると、喉の奥で「コロン」と愛らしい音を鳴らした。

ぽとっ。

床に転がり落ちたのは、先ほどまでの不快な濁りが嘘のような、水底のように深く透き通ったクリスタルブルーの美しい結晶だった。


「おお、こいつは売り物になりそうな純度だな」


テオが手際よく結晶を回収する。 同時に、温室の空気は、瑞々しい朝露の香りへと心地よく塗り替えられていった。




ーーーこの穏やかな硝子の庭で、今度は怯えきった新人事務員がベラドンナを喰らうことになるのだが、それはまだもう少し先の話だ。










次回からは第8話がスタートします。

新たな客は「怯えきった新人事務員」。

そして彼女が喰らう猛毒の『ベラドンナ』とは一体!?

次の更新もお楽しみに!



本日もご来店ありがとうございました!

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