第6話:甘い嘘の香箱と、艶やかな結晶【後編】
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『……もう限界だ。支配人として、この神聖な場所の風紀を守る義務がある!』
テオが濃紺の瞳に悲壮な決意を宿し、真っ赤な顔で調香室の硝子扉へ突撃しようとした、まさにその瞬間。
ルカは鑑定を終え、金属の重いラッチをカチャンと下ろして、内側から分厚い扉を開け放った。途端、えもいわれぬ悪臭が温室にまで漏れ出してくる。テオは思わずハンカチを取り出し鼻を抑えた。
「ぐ…なんだ…これが噂のシベットの匂い、なのか?…あ、お前ら……!」
そこには、理性を失うどころか、極めて理知的な調香師としての瞳をしたルカと、上品なワインレッドのブラウスに乱れ一つなく、優雅に微笑むイリスの姿があった。
「テオ。彼ら商人の手口は、いつの時代もワンパターンで退屈だね」
ルカの声は静寂の温室によく通り冴え渡った刃のようだった。ルカは片手に、油膜の浮いた濁った液体が入った試験管を持っている。
「ルカ、それは……」
「山羊の脂と、粗悪な化学香料の塊だよ。本物のシベットは一滴か二滴、表面を誤魔化すために垂らされているだけだ。顕微鏡で覗くまでもなかったね」
ルカは調香室の静寂を背負ったまま、ゆっくりと試験管を陽光にかざした。
「最初は、誰の鼻をも背けさせる強烈な悪臭というトップノートが立ち上る。それは虚飾で身を固めた大商人の強欲そのものだ。だが、それを剥ぎ取った後に残るはずの、夜の獣が持つ底知れない深み……ラストノートが、この素材には決定的に欠けている」
静かなルカの声だけが、硝子の庭に落ちる。 テオもジンも、香りの真理を突く言葉に、息を呑んで沈黙した。
「表面だけの甘い嘘は、時間が経てば無様に崩壊する。イリス、君の淹れる誠実な珈琲に、こんな濁った不純物は一滴も必要ないよ」
「ええ、その通りね。おかげですっかり目が覚めたわ。ありがとう、ルカ」
イリスは満足げに頷き、偽物の木箱を冷ややかに見下ろした。
「……なんだ。本当に、ただの鑑定作業だったのか」
テオが安堵のあまり全身の力を抜くと、ルカは不思議そうに小首を傾げた。
「テオ、何を一人で耳まで赤くしているの? まさか、僕とイリスが何か色恋沙汰でも起こしていると勘違いしたのかな? 人間の感情の機微なんていう世俗のローカルルールは、ジャコウネコが命がけで分泌する香気の神秘に比べれば、あまりにも他愛のないトップノートに過ぎないよ」
「……お前のそういうところ、本当に嫌いだ!」
テオは両手で顔を覆い、深く天を仰いだ。自分の純情と、無駄に消費した胃薬を返してほしいと切実に願っているような顔だった。
「あぁ……」
シベット疑惑の真相を解き明かし、成分のバグを特定した途端、ルカの思考回路から急速に電流が失われていく。 骨抜きになったように膝から崩れ落ち、タイルの床へだらりと手足を投げ出した。
「偽物だと分かったら、急に興味が失せた。本当にただの悪臭なんだもの。……はぁ、本物の最高級シベット…ねぇ、テオ。温室で一匹ジャコウネコを飼わないか?」
「これ以上、おかしな獣をこの庭に連れてくるな!」
テオがすかさず怒鳴り、イリスから受け取った淹れたての「深煎りリセット珈琲」の入った白磁のカップを、へたり込むルカの鼻先に強引に突きつけた。
「うぶっ……!」
強烈な苦味と香ばしさがルカの脳をダイレクトに打ち据え、過集中だった意識が現実世界へと一気に引き戻される。テオは腑抜けたルカの脇を両手で抱え上げ、
「ほら、立つ! 飯にするぞ!」
とズルズルとリビングの木製テーブルへ引きずり出していった。
ガコン、と重い鉄のレバーを引く音が響いた。 テオが真鍮の歯車を回して天窓の換気システムを起動させる。
「ギギギ……」
と心地よい唸りを上げて窓がゆっくりと開き、外の冷たい空気が流れ込む。温室内に漂っていた獣臭と偽物の香料の匂いが、新鮮な外気へと吸い出され、空間は清浄な空気へとリセットされていく。
「無駄に胃を痛めた俺へのご褒美だ。くそ。絶対に美味いと言わせてやる」
テオがテーブルの中央にドンと置いたのは、熱々の鉄皿だった。
オーブンから取り出されたばかりのそれの上で、ハーブをたっぷりと混ぜ込んだ黄金色のパン粉が、「チリチリ」「ジジュ……」と小さく心地よい音を立てて歌っている。
『野猪の香草パン粉焼き――完熟プラムと赤ワインのビターソース』である。
テオがナイフを入れると、「ザクッ」という小気味よい音が響き、サクサクの衣の中から、ほんのり桜色をしたジューシーな肉汁が湯気とともに溢れ出した。
「いただきます」
四人でテーブルを囲み、料理を口に運ぶ。 剥き出しの野生を感じさせる野猪の肉質は、ジャコウネコの「獣の気配」を品よくオマージュしているかのようだった。そこに、完熟プラムの甘酸っぱさと赤ワインの渋みをじっくりと煮詰めたビターソースが絡み合い、噛むほどに芳醇な旨味が口いっぱいに広がる。
「んんー!美味しいわ。野猪の野性味を、このビターソースが見事に手懐けている。テオくんの腕は、相変わらず一流ね」
イリスがワイングラスを傾けながら、ふふっと琥珀色の瞳を細めた。
「ねぇ、テオくん、さっき扉の外で、何を想像していたの?」
「ぶっ……! い、いや、あれは不可抗力というか、ルカの言い回しがひどく紛らわしくて……!」
むせたテオの背中を、ジンが大きな手でバンバンと叩く。
「勘違いも、料理のいいスパイスだよな。おかげで今日の野猪は格別に美味いぜ」
ジンは食後の木製パイプに火を点けながら、諦念と温かみの混じった笑いを浮かべて紫煙を吐き出した。
「よくわからないけど、お肉が柔らかくて美味しいね」
事の顛末など微塵も気にしていないルカは、呑気に野猪の肉を頬張っている。テオはもう反論する気力もなく、ただ深い溜息をついて野猪肉を口に運んだ。
食事が終わり、深い余韻がテーブルを包んだ頃。 ベンチで丸くなっていたモカが、のっそりと起き上がった。
「すぅぅぅ……」
モカは空間にわずかに残っていた濃厚な料理の香りと、商人が持ち込んだ偽物の残香、そしてテオの空回りした疲労感といったビターな名残を、すべてその小さな身体へと一息に吸い込んでいく。
お腹を少しだけ膨らませたモカは、満足げに目を細めると、喉の奥で「コロン」と愛らしい音を鳴らした。
ぽとっ。
モカの口から転がり落ちたのは、今日の騒動の顛末を封じ込めたかのような、艶やかで深いワインレッドの結晶だった。 ルカがそれを拾い上げ、ランプの柔らかな光に透かして静かに微笑む。
温室の空気は、もうすっきりとクリアな「朝露の香り」へとリセットされていた。 少しだけ世俗の欲と勘違いに振り回された日も、こうして五感を満たす手料理に包み込まれ中和されていく。
『硝子の庭』に、また穏やかで静謐な夜が訪れようとしていた。
ーーーこの硝子の庭の扉を、ツンとした酢酸臭を漂わせた頑固な現像職人が叩くことになることを4人はまだ知らない。
次回からは第7話がスタートします。
新たな客は、ツンとした酢酸臭を漂わせる頑固な現像職人。
写真と香りが交差する次のエピソードもお楽しみに!
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