第6話:甘い嘘の香箱と、艶やかな結晶【中編】
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「……嫌な予感がする」
テオは無意識に、右手をエプロンのポケットへと伸ばしていた。そこには常に、彼の胃を救済するための粉薬が常備されている。
調香室は防音設計になっているが、換気用の真鍮の管を伝って、微かに中の声が漏れ聞こえてくることがあった。
テオが帳簿に目を落とそうとしたその時、管の向こうからルカの異様に興奮を帯びた声が響いてきた。
『あぁ……これほど濃厚で、熟成されたものは滅多にない。イリス、もっと奥まで見せてくれ。君の持ってきたこいつが、僕の理性をひどく揺さぶるんだ……』
テオの持っていた万年筆が、ピタリと止まった。
『ふふ……そんなに焦らないで、ルカ。これはとても繊細なものだから。じっくり時間をかけて。あなたの好きに紐解いていいのよ?』
イリスの、どこか艶のある聡明な声がそれに続く。
「は……?」
テオの顔からサッと血の気が引き、次の瞬間、一気に耳の先まで真っ赤に沸騰した。
ルカとイリスは今、調香室という密室で、件の木箱に入った香料の鑑定――段階的な希釈実験と顕微鏡による成分分析という、繊細な作業を行っている最中だろう。
そう。希釈実験と成分分析。
何を狼狽えているんだ、俺は。テオは再び万年筆を持ち直し、帳簿に集中する。
温室の熱源の燃料になるモカの結晶のうち、適した品質の在庫があと12個…これを日にち換算すると…
『ああっ、それはダメだ。このままじゃ……濁った不純物が邪魔で本質が見えない……!』
『垂らすわよ、ルカ。…少しずつ、ゆっくりと…そう、ここ……』
『ぅん……この粘度はどういうことだ…』
『もうちょっとよ』
『この揮発性は…ああ、ダメだ…』
慎重にスポイトで溶剤を垂らすイリスと、ビーカーの色の変化を見つめるルカ。 しかし、ガラスの向こうのテオからは手元の作業は見えず、換気用の真鍮の管から漏れ聞こえる断片的な声だけが届いている。
「あああああッ!!」
テオは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。同い年とはいえ、生活能力が壊滅的なルカと、あの大人の色気を持つイリスだ。まさか、調香室という密室で、獣の香りに当てられて一線を越えてしまったのではないか。
震えかけている手でエプロンのポケットから胃薬を取り出すと、水も飲まずに口の中に放り込んだ。苦味が舌の上に広がるのを耐えるように顔を歪める。
「ほう。あの天才も、いっちょ前に人の子だったか」
温室の入り口から、白髪交じりの鉄黒の髪を無造作に束ねたジンが姿を現した。山野の冷たい風と深く燻らせたパイプ煙の匂いが屈強な身体から漂っている。
「 い、いつの間に……」
「ついさっきだ。お前が顔を真っ赤にして一人で悶えているのを見て、声をかけるのを躊躇っただけだ」
ジンはニヤリと笑い、顎で調香室の扉をしゃくった。彼もまた、長年の過酷な自然の中で培った鋭い聴覚で、漏れ聞こえるルカたちの会話の断片を察知したのだろう。
「テオ。人間の恋路ってやつは、野性の獣と同じだ。無理に止めようとすれば噛みつかれるぞ。邪魔するなよ」
「ち、違う! ルカに限ってそんな世俗的な……いや、でも相手はあのイリスだし……それに、ジャコウネコの香りは人の理性を飛ばすらしいし……!」
ぐるぐると混乱の極みにあるテオを見て、ジンは面白そうに肩を揺らして笑っている。若き支配人の胃痛の種は、今日も尽きることがないようだ。
『いいの?ルカ』
イリスのくぐもった声が微かに聞こえてくる。
『……もう限界だ。支配人として、この神聖な場所の風紀を守る義務がある!』
テオが濃紺の瞳に悲壮な決意を宿し、真っ赤な顔で調香室の硝子扉へ突撃しようとした、まさにその瞬間。
換気管から漏れ聞こえる艶やかな声に、テオの勘違いと胃痛は最高潮へ!
悲壮な決意で扉を開けた彼を待ち受けていたものとは!?
次回、鮮やかな謎解きと美味しいジビエの後編へ続きます。
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