第6話:甘い嘘の香箱と、艶やかな結晶【前編】
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『硝子の庭』の午後は、いつも植物たちが吐き出す瑞々しい呼吸の音で満たされている。
天井を覆うアーチ状の硝子板から降り注ぐ陽光が、シダ植物の葉脈を透かして柔らかな翡翠色の影を落としていた。
木製のベンチの上では、片手より少し大きいくらいの生成色の毛玉――モカが、その一キログラムのずっしりとした身体を丸め、「すぅぅぅ」と規則正しい寝息を立てている。
「テオくん。今日もいい空気ね」
温室の入り口から、声に艶のある心地よい響きが落ちた。自家焙煎珈琲と雑貨の店『ブルーム』のオーナー、イリスである。
漆黒のウェーブヘアを上品なクリップでハーフアップにまとめた彼女が一歩足を踏み入れるたび、身を包む深いワインレッドのシルク混ブラウスと黒のロングギャルソンエプロンが、柔らかな衣擦れの音を立てる。纏っている微かな深煎り珈琲の香ばしさと、耳元で揺れる小さなピアスが反射する光が、温室の土の匂いと美しく混ざり合い、空間を静かに華やがせた。
「いらっしゃい、イリス。今日は早いんだな」
支配人であるテオが、手元の帳簿から顔を上げて微笑んだ。艶のある濃い焦げ茶色の髪と、誠実さを感じさせる濃紺の瞳。プレスされた清潔な白シャツに身を包んだ彼は、いつも通り実用性と品格を兼ね備えた商人の落ち着いた佇まいをしている。
だが、その視線はイリスの腕に抱えられた、厳重に革紐で封じられた小さな木箱へとすぐに吸い寄せられた。
「そいつは?」
「ええ。今日は珈琲豆の配達ついでに、少し厄介な相談があってね」
イリスは木箱をカウンターの上の布にそっと置いた。カチリ、と微かな硬質な音が鳴る。
「南の辺境から来た商人が、『他に類を見ない珈琲の隠し味、あるいは至高の香料』として、これを持ち込んできたの。彼曰く、滅多に市場に出回らない未精製のシベット……霊猫香だそうよ」
「シベット……ジャコウネコか」
テオが僅かに眉をひそめた。その名前の持つ厄介さを、彼は商人の心得として知っていた。
「本物なら、小さな城が建つほどの価値があるってやつだな」
「ええ。でも扱いがとても難しいのよね。原液は鼻が曲がるほどの猛烈な悪臭で、何百倍にも希釈するとなると、さすがに私の店では手に負えないわ。でも天才調香師さんの力を借りれば、コピ・ルアクに近い極上の一杯を出せるかも……なんて、焙煎士としての欲も捨てきれなくてね」
イリスはただ麗しいだけの焙煎店オーナーではない。目端が効き、それとなくしなやかに客の気持ちに寄り添う品を提供するからこそ固定客は離れない。そしてまた、自身の腕に磨きをかけることも忘れないので、飽きがこないのだ。そんなイリスの経営手腕に、テオは尊敬の念を持っている。
「もちろん、うちの工房としても香りを長く繋ぎ止める上に、深い艶を与える極上の保留剤なんてありがたい限りだが…」
「ええ。私は焙煎士として、珈琲の香りを深める極上の魔法になるのか、それともただのまやかしの紛い物なのか。私自身の鼻でも確かめたいの」
「――それなら、僕に任せてもらおうか」
ふいに、温室の奥から静かな、しかし確かな熱を帯びた声が響いた。 いつの間にかそこに立っていたのは、この硝子の庭の主であり、天才調香師のルカだった。
生成りのコットンシャツの袖をまくり上げ、指先には微かに植物の樹液の染みをつけている。普段は平熱で感情の起伏を見せない彼のダークブラウンの瞳が、今は未知の事象を発見した好奇心で爛々と輝いていた。ずり落ちかけた丸眼鏡を直すことすら忘れているようだ。
「ルカ、お前、またろくに昼食も食べずに……」
「テオ、黙って。僕は今、とても重要な気配を感じている」
ルカはテオの小言を意に介さず、音もなくイリスの正面へと歩み寄った。そして、イリスの許可も待たずにカウンター上の木箱を両手で包み込むように奪い取る。
「……素晴らしい」
ルカはうっとりと目を細め、木箱の隙間から漏れる微かな空気を肺の奥底まで深く吸い込んだ。
「脳の奥の原始的な部分を引っ掻くような、この強烈な野生の気配。幾重にも重なる糞便臭の奥底に、確かに艶やかで芳醇な香りの萌芽が隠されている。イリス、君はなんてものを持ってきたんだ!」
興奮のあまり、ルカは無自覚にイリスの顔の数センチ先まで距離を詰めていた。彼の理知的な顔立ちが、イリスの吐息が届くほどの位置にある。他人のパーソナルスペースなど、今のルカの頭の中には存在しない。
あるのはただ、未知なる香りの階層構造を解き明かそうとする、調香師としての底知れぬ探究心と分析的な愛情だけだ。
だが、イリスは動じることなく、大人の余裕を含んだ琥珀色の瞳を細めて、楽しげにくすりと笑った。
「ふふ……ルカ、少し距離が近すぎよ。でも、あなたならこの香りの奥にある価値が分かると信じていたわ」
「当然だ。今すぐ成分を分離し、階層を解剖しなければならない。イリス、君も来るかい?」
「ええ。焙煎士として、その香りの本質が暴かれる瞬間をぜひ見届けさせてもらうわ」
二人は木箱を大切に抱え、温室の隣りにある――外部の匂いと音をすっきりと遮断する調香室へ足早に消えていった。
ガチャン、重い金属のラッチが下りる音が響き、テオだけがポツンと取り残された。
「……嫌な予感がする」
テオは無意識に、右手をエプロンのポケットへと伸ばしていた。そこには常に、彼の胃を救済するための粉薬が常備されている。
美しき焙煎士と天才調香師が、密室へ。
果たして『ジャコウネコ』の香りの正体とは? そして若き支配人の胃の運命は……!?
次回、勘違いが加速する中編へ続きます。
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