第5話:優しき檻と、緑の洗礼【後編】
いつもお読みいただきありがとうございます!
自分は家族を守りたかっただけなのに。 そのための行動が、結果的に自分自身を殺し、いずれ愛する家族をも道連れにする破滅への道だというロジック。
ルカは静かに踵を返し、温室の勝手口を出ていく。
ルカが子供の頃から、種や株を植え増やし続けた自称 薬草園は一見ただの藪にしか見えないが、さまざまな原種のハーブが温室の植物にはない生命力で蔓延っている。ルカは一株の植物を根元から無造作に引きちぎって戻ってきた。
それは、鮮やかな緑色をした『野生のミント』だった。
ルカは、虚ろな目をして震えが止まらない女性の目の前に立ち、そのミントの葉を無遠慮に突きつけた。
「ミントという植物は、その爽やかで無害そうな見た目に反して、極めて攻撃的な生態を持っているんだよ」
淡々としたルカの声は、植物の変数を語る時特有の冷静な響きを帯びていた。
「彼らは、自らが生きるテリトリーを確保するために、強烈な芳香物質である『メントール』を放って、周囲の土壌を完全に支配するんだ。他の草木の侵入を許さない。そうやって自らの尊厳と領域を死守する、苛烈な生存戦略を持っている」
ルカの指が、ミントの葉に触れる。
「そして、メントールは人間の皮膚や粘膜にある『冷覚受容体』に直接結合し、脳に対して強制的に『冷たさ』の錯覚を送り込むことができる。これは、あなたの疲労で麻痺しきった感覚の壁をハッキングするための、物理的なショック療法だよ」
「ショック、療法……?」
女性が顔を上げた、その瞬間。
ルカは女性の鼻先で、両手で包み込んだミントの葉を、力強く、容赦なく握り潰した。
パキパキッ、と細胞が弾ける音とともに、爆発的な緑の香気と、メントールの鋭利な清涼感が、温室の重い湿気を叩き割った。 それはまさに、緑の洗礼だった。 鼻腔の奥から脳天を直接突き抜けるような、暴力的なまでの『冷たい衝撃』。
「っ……!!」
女性は大きく息を吸い込み、目を見開いた。彼女の脳を覆っていた分厚い疲労のノイズと、感覚の麻痺が、ミントの冷気によって強制的にクリアにされていく。ルカは、ミントの香気が最も濃く立ち上る空間の只中で、女性に向かって静かに告げた。
「表面を飾る『良妻賢母』という偽りのトップノートが揮発した後に残る、本当のラストノート。このミントの匂いは、他者にあなたの領域を侵食させないための境界線なんだ」
ルカの硝子玉のような瞳が、女性の本質だけを真っ直ぐに射抜く。
「誰かの妻でも、誰かの母親でもない。都合の良い役割のラベルをすべて剥ぎ取った後に残る、あなたという原種の名前は何ですか?」
感覚をハッキングされた脳が、呪縛から解放され、本来の思考を取り戻していく。
家族の荷物で埋もれていた屋根裏部屋。
失ったアトリエ。
誰のためでもなく、ただ自分が美しいと思うものを綴じていた、あの静かで誇り高い時間。
ミントの絶対的な冷たさが、彼女の内側に眠っていた『自分自身の輪郭』を鮮明に描き出していく。
女性の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。 それは、理由の分からない疲労の涙ではない。自らのテリトリーを、自らの意思で取り戻そうとする、生命力に溢れた涙だった。
「……私の、名前は」
女性は、震える声で、しかし確かな輪郭を持って答えた。
「私の名前は……セシル」
彼女が自らの名前を取り戻したのを確認すると、背後で静かに控えていたテオが歩み寄った。 テオは、ルカが握り潰したミントを素早く小さなガラスの小瓶に移し替え、コルクで栓をすると、それをハンカチに包んでセシルへと手渡した。
「硝子の庭からの処方箋です。あなた自身の領域を守るための、絶対的な境界線。どうか、お忘れなきよう」
セシルはその小瓶を、今度は自分自身を支えるための確かな芯として、両手でしっかりと握りしめた。
***
数日後。 『硝子の庭』のポストに手紙が届いた。
『テリトリーを取り戻しました。とりあえず家族の食事だけは私が作ってあげたくて、帰宅してからさっと準備してテーブルに並べました。そしてエプロンを外してから、小屋裏部屋の家族の荷物をすべて廊下に叩き出しました。
どうやら私は怒っていたみたいです。こうして怒って私を守っていいんだと。あの日、ルカ様に見せていただいたミントのように、私も家族のためにしたいことと、自分の領域を切り分けて、この手で死守することに決めました。
かつてのように膠を温め、針を通す時間も取り戻します。私に自分の名前を思い出させてくれたお礼に、お二人の手帳を誂え始めました。2ヶ月ほどお待ち下さいね。
――セシル』
「うわぁ、楽しみだね、テオ。一点ものの僕の手帳かぁ……配合比率帳…それともジンや僕の種やハーブの図鑑…いや昆虫のフェロモン観察記も悪くない…」
ルカがそう呟いた直後。
すとん。
一切の前触れもなく、ルカの四肢からふっと力が抜け、糸の切れた操り人形のように、無言でテラコッタタイルの床へとへたり込んだ。 今日も3つの雑貨への調香を終えたところだ。過集中による、脳のエネルギー切れによるシャットダウンだった。
「……おい。そこで寝るな」
テオが深い溜息をつく。 テオは慣れた手つきで、常備してある深煎り珈琲豆が詰まった麻袋をルカの鼻先に押し当てた。強烈なロースト香でルカの嗅覚を強制的にリセットさせると、その小柄な身体を白衣ごと掴み、「ズリズリ」と音を立ててリビングのソファへと強引に引きずっていく。
テオは壁の古い真鍮製レバーを引き、天窓の換気システムを稼働させた。 歯車が回り、温室にこもっていた今日の調香の残り香が、夕暮れの風に乗って外へと流れていく。
厨房では、食事の準備がすでに整い出していた。 かまどから下ろされたばかりの、分厚い黒のスキレット。その上では、茹でて粗く潰したジャガイモと、大ぶりに切り分けられた鹿肉が、たっぷりのバターの泡をじゅわじゅわと弾けさせている。
本日のメニュー、『鹿肉とジャガイモのハッシュ・スキレット』だ。
テオが仕上げに、庭(ルカの自称薬草園)から摘んできたばかりの大量のタイムとローズマリーを無造作に投入し、木製のペッパーミルで粗挽きの黒胡椒を「ガリッ」と力強く挽く。 鹿肉の野性味とバターの脂、そしてハーブのスパイシーで香ばしい香りが、一気に部屋を満たしていく。
「ほら、食え。脳にカロリーを補充しろ」
テオがスキレットごとテーブルに置くと、ルカは気怠げに身を起こし、無言でスプーンを握った。 テーブルの向こう側では、ジンが自らの分の鹿肉をナイフで切り分けている。
「……お前さん、本当に上手いこと作るよな。これも例の馬主のばあさんちの芋なんだろ?」
「ああ、ペーストにするのも面倒だったから、今日はザックリだ」
じゅわっと上がる熱い煙の向こうで、いつもの会話が淡々と交わされる。 ただ、肉を噛みちぎり、カロリーを摂取して明日を生きるための、職人たちの食卓。
その足元で。
ぽよん、とモカが小さく跳ねた。
「ぽわ」と鳴いたモカは、空中にわずかに残っていた、セシルの流した涙とメントール、そして古いホコリが混ざり合った『戦いの残香』を
すぅぅぅぅぅ……
と静かに吸い込んだ。
コロン。 喉の奥で涼やかな音を立て、モカが床に吐き出したのは、光を内包したような美しい琥珀色の丸い結晶だった。
硝子の庭の空気は、こうして瑞々しい朝露のような、ただの植物たちの呼吸の匂いへとリセットされた。
ーーーこの天才職人とスマート商人の元に媚薬の素にもなりうる素材が持ち込まれ、商人の胃は危機に晒されることになるのだが、この時のテオは微塵も気づいていない。
次回からは第6話がスタートします。
平和な温室に持ち込まれた「媚薬の素」。そしてテオの胃に迫るかつてない危機とは!?
次の更新もお楽しみに!
本日もご来店ありがとうございました!
もしこのお話を楽しんでいただけましたら、下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、モカが飛び跳ねて喜びます(作者のモチベーションが爆上がりします)!
ブックマーク登録も、ぜひよろしくお願いいたします。




