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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第5話:優しき檻と、緑の洗礼【中編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

膠。そして、革。


その二つの単語を聞いた瞬間、女性の力んだ肩が跳ね、その単語を反芻した。


彼女の脳裏で、長く封印していた記憶の扉がこじ開けられた。太陽の光が斜めに差し込む、小さな屋根裏部屋。古い紙の埃っぽい匂い。真鍮の道具たち。温められた動物性のゼラチンの、独特の甘い匂い。


「………」


女性は深く息を吸い込んだ後、こぼれ落ちるように話始めた。


「私、結婚する前は……『ルリユール』の職人だったんです」


ルリユール。


それは、古くなった本や、バラバラになった書物を、手作業で美しく堅牢に綴じ直す製本工芸のことだ。

そこからは堰を切ったように言葉が溢れ出てきた。


「紙の繊維を整えて……背を糸でかがって、上質な革を鞣して、背表紙に箔を押し当てる。年月を経てバラバラになってしまった言葉たちが、私の手の中で、もう一度一つの美しい形に綴じ合わされていく……。あの静かな時間が、私は、たまらなく好きでした……」


語る女性の目には、先ほどまでの虚ろな闇とは違う、確かな微熱が灯っていた。 しかし、その熱は数秒後には、再び自責の念によって冷たく塗り潰されてしまった。


「でも、結婚して、子供が生まれて……私は妻で、母になりました。自分のための時間なんて、持っている場合じゃなくなって。…アトリエだった屋根裏部屋はいつのまにか木箱で埋まって、家族の冬物のコートや、子供たちの古いおもちゃをしまう『物置』になっていきました。ルリユールの道具は…もうどこにあるのかも分かりません。」


彼女は、自分で自分の居場所を潰したのだ。


家族という他人の荷物を詰め込むために、自分の一番大切なテリトリーを明け渡し、自らを『良妻賢母』という優しい檻の中に閉じ込めた。その結果が、今の彼女の「鉛のように重い体」であり「理由のない涙」であった。


だが、事実を突きつけられ、原因を自覚してなお、女性は立ち上がろうとした。


「……それでも」


彼女は震える膝に力を入れ、再び、ひび割れた仮面を顔に貼り付けようとする。


「私が、やらなければならないんです。私が倒れたら、家族は……誰が家族の生活を回すんですか。お願いです、私に、香りを……」


長年かけて自分にかけてきた呪縛は、そう簡単に解けるものではなかった。彼女は再び、己を縛る役割の鎖を握りしめ、泥沼へと沈み込もうとしていた。


「……おいおい。人間ってのは、随分と面倒な生態をしてるんだな」


その時。


温室の壁際に生い茂る大ぶりのシダ植物の影から、低く、しゃがれた声が響いた。


使い込まれた木製のパイプをくゆらせながら姿を現したのは、シードハンターのジンだった。彼はいつからそこにいたのか、壁に寄りかかりながら、紫煙とともに野生の真理を吐き出した。


「自然のルールは、人間のおためごかしの理屈よりも、ずっとシビアだぜ、奥さん」


ジンはパイプを口から離し、枯葉のような黄褐色の瞳で女性を真っ直ぐに射抜いた。


「自分のテリトリー(領域)を他者に明け渡して、誰かに依存され、あるいは依存しすぎた生き物は……その森で真っ先に枯れる。それが野生の絶対的な摂理だ」


「テリトリー……」


「そうだ。あんたがその自分で作った『優しい檻』の中で、栄養も水も自分に与えずに倒れたら……それこそ、あんたが守りたいと思っているその家族は、一体誰が支えるんだ?」


ジンの言葉は、荒々しく、容赦がなかった。しかしそこには、過酷な自然界を生き抜いてきた男だけが持つ、不器用で確かな温かみがあった。


「あんたが潰れれば、あんたに寄りかかっている家族も共倒れだ。あんたのその自己犠牲は、愛なんかじゃない。ただの生存戦略の破綻に過ぎない」


共倒れ。


その痛烈な事実が、女性の心の最も脆い部分を正確に貫いた。


「あ……」


彼女は、もはやエプロンを握りしめることすらできなかった。両手が小刻みに震え、顔に貼り付けていた「良妻賢母」という薄氷の仮面が、ピキリと音を立てて今度こそ完全に砕け散っていく。

自分は家族を守りたかっただけなのに。 そのための行動が、結果的に自分自身を殺し、いずれ愛する家族をも道連れにする破滅への道だというロジック。


ついに 女性の身体に巻きついていた強張りが解けた。

声にならない嗚咽を漏らし、過呼吸を起こしそうな勢いで胸を上下させている。その目の虚ろさが増し、完全に焦点を失おうとしていた。






家族を守るための自己犠牲が、実は共倒れへの道だったという冷酷な真理。

完全に崩壊しかけた彼女を、ルカはどうやって救うのか。

次回、魂が震える「緑の洗礼」の後編へ続きます。



最後までお読みいただきありがとうございます!

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明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

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