第5話:優しき檻と、緑の洗礼【前編】
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激しい夕立が通り過ぎた後の王都郊外は、重く、沈んだ湿気に包まれていた。 空にはまだ鈍色の雲が居座り、夕暮れの光を曖昧に滲ませている。
石造りの洋館に併設された温室『硝子の庭』は、天窓を叩きつけた雨の余韻と、急激な気温の変化によって蒸された植物たちの、むせ返るような青々しい呼吸で満ちていた。 たっぷりと水分を含んだ黒い土の匂いが、空気の底に重く沈殿している。
その温室の奥。ひんやりとしたテラコッタタイルの床に、天才調香師のルカは、ペターッと這いつくばっていた。
銀縁の丸眼鏡の奥にあるダークブラウンの瞳は、一点をじっと見つめている。視線の先にあるのは、鉢植えの陰をせかせかと這い回る一匹の小さな甲虫だ。
「……なるほど。腹部の腺から分泌される微量のフェロモン。炭化水素の鎖が、この高湿度の空気中でどう揮発し、仲間に軌跡を伝えるのか。見事な生存の数式だ……」
ルカの過敏な嗅覚は、常人には絶対に感知できない甲虫の微細な化学物質の匂いを捉え、その軌跡を脳内でトレースしていた。床に頬を押し付け、白衣が土と水滴で汚れようがお構いなしの、見事な没入ぶりである。
そこへ、背後からコツッ、コツッ、と規則正しい硬質な足音が近づいてきた。
「……夕立の湿気で頭が湧いたのか。床で虫と交信するのはやめろ」
冷ややかな声とともに、ルカの白衣の襟首がガシリと掴まれた。
「うぇっ」
情けない声を上げるルカを、若き支配人であるテオは容赦なくズルズルと引きずり起こした。
そして襟首から手を離し、白衣の汚れを無造作に払うテオの空気が、ふっと『スマートな商人』のそれへと切り替わった。
「来客だ。仕事の顔になれ」
テオの視線の先、温室のリビングスペースに置かれたベンチには、一人の女性が背筋を伸ばして座っていた。
年の頃は三十代半ばだろうか。端正で整った顔立ちをした女性だった。身に纏っているのは、仕立ての良い上質な木綿のドレス。その上には、ピシッと糊のきいた真っ白なエプロンが着けられている。 一見すれば、しっかりと家庭を取り仕切っているできる主婦の姿だ。
しかし、その姿はどこか歪だった。彼女の両手は膝の上で固く組まれ、指の関節が白く透けるほど、エプロンの裾を強く握りしめていたのだ。
今日は、温かい緩衝材となってくれるイリスもいない。 テオは、女性から発せられるただならぬ強張りと緊張を察知すると、手早くお湯を沸かし、香りの主張が少ない無難なハーブティーを淹れてテーブルに置いた。
「お待たせいたしました。『硝子の庭 調香工房』へようこそ。支配人のテオと、こちらが調香師のルカです」
テオの落ち着いた声に、女性は、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。
「あ、ありがとうございます……」
女性は、人の良さそうな笑顔を作ろうとしたが表情筋は強張っており、仮面を作ることには失敗していた。
ルカは丸椅子に腰を下ろし、丸眼鏡の位置を中指で押し上げながら、彼女のその歪な様子を静かに観察した。
「……それで、今日はどのようなご依頼でしょうか」
テオが事務的な、しかし相手を急かさない平熱のトーンで促す。
女性はハーブティーのカップを両手で包み込んだ。その手は、カチャカチャと微かに震えている。
「……私、母親なんです」
ぽつりと、女性は虚空を見つめながら口を開いた。
「夫がいて、二人の子供がいます。家事をして、家族の健康を守って…親戚やご近所とお付き合いをして……家族を、支えています。それが私の役目で、当たり前のことです。」
まるで、自分自身に言い聞かせるような、呪文めいた口調だった。
「夫は外で懸命に働いています。子供たちは育ち盛り。私が家のことをきっちりやらなければ、家の中が回らなくなってしまう」
女性の言葉は、世間一般の『良妻賢母』の鑑のような内容だった。しかし、それを語る彼女の目は酷く虚ろで、息も不規則だった。
「でも……最近、おかしくて。朝、起き上がろうとすると、体が鉛のように重くて、どうしてもベッドから出られない日があったり。家族の服を畳んでいると、理由もないのに涙が溢れてきて、止まらなくなったり。食事を作っていても、味がよく分からなかったり…」
女性はティーカップから手を離し、再び白いエプロンを強く握りしめた。
「ただの、疲れなんだと思います。私の気合が足りないだけなんです。休んでいるわけにはいかないのに、体が言うことを聞いてくれなくて…」
彼女の呼吸が、次第に浅く、速くなっていく。女性は、すがるような、悲痛な祈りを込めた瞳でルカを見つめた。
「こんな普通のことも、きちんとこなしきれない自分が嫌なんです。気がつくと不満や愚痴が口を吐きそうになってしまう。スッキリと頭が整理されて、朝から晩まできっちり動けるような。そんな『強い香り』をください。お願いです…」
女性の悲痛な懇願が、夕立の名残である重い湿気に満ちた温室に吸い込まれていく。それは救済を求める祈りに見えて、限界を迎えている自らの心身に鞭を打ち、強制的に稼働させ続けるための要求であった。
ルカは丸椅子から無言で立ち上がると、一切の躊躇なく、ずかずかと女性のパーソナルスペースへと踏み込んだ。
「え……?」
戸惑い、身をすくめる女性を意に介さず、ルカは彼女の首筋、その白く糊のきいたエプロンの襟元すれすれまで鼻先を寄せた。スン、と、周囲の空気を鋭く吸い込む音が響く。
その時。
ルカの足元の影から、ぽよん、とお餅のような弾力を持ったスライム状の生き物――モカが姿を現した。
「ぽわ?」
不思議そうに首(のような部分)を傾けたモカは、女性の全身から発せられている、極度に強張った重い緊張の空気を、すぅぅぅぅ……と深く吸い込んだ。
すると、普段は生成り色をしているモカのもふもふとした毛並みが、暗い灰色と、不規則な雑多な色が混ざり合った不気味な「マーブル色」へと明滅し始めた。
ルカはゆっくりと顔を離し、中指で丸眼鏡の位置を押し直した。 そのダークブラウンの瞳に同情はなく、ただ医者がレントゲン写真を読み解くような、分析の光だけが宿っている。
「……調香師として言わせてもらいましょう。あなたの要望は間違っている。あなたに今必要なのは、強制稼働のための香りなんかじゃない」
ルカは淡々と、凪いだトーンのまま彼女の匂いを解体し始めた。
「まず、あなたのトップノート。あなたから漂っているのは、石鹸や糊といった、あなたが理想とする『良妻賢母』という甘く穏やかな香りが非常に強い。でも、もう擦り切れて久しい感じだね。」
必死に守ろうとしているアイデンティティを引き剥がされる予感に、女性の瞳に警戒が走った。
「そしてミドルノート。…古い皮脂が酸化したヘキサナールの匂い、それに、複数の人間の体臭や生活臭が混ざり合った……言うなれば『他人の荷物のホコリ臭さ』だよ」
「そんな…私、毎日、洗濯物を仕分けして、きちんと洗って干してアイロンをかけてます!」
女性の言葉に抗議の色がのりはじめた。
「それはトップノートが物語っているから知っているよ。これはミドルノートのお話。…人間はね、同じ匂いを嗅ぎ続けると、脳がそれをノイズとして処理して、感知しなくなるんだ」
「それは市場に着いた時に感じた匂いが、買い物をしているうちに気にならなくなる、というような?」
女性が恐る恐る尋ねる。
「そう。それと同じ。…あなたは、妻や母という『役割』に適応しようとしすぎるあまり、他人の荷物と他人の匂いばかりを背負い込んでいるんじゃないですか?自分の鼻に他人の匂いがこびりついて離れなくて、気がつかないうちに『嗅覚疲労』を起こしている。自分自身の匂いを見失っているんだよ」
ルカの容赦ないロジックが、女性の築き上げてきた主婦の鎧を削り取り、女性は目を見開いたまま動けずにいた。
「だけど」
ルカは言葉を区切り、ほんの少しだけ目を細め、彼女のさらに深い部分を探るように言葉を紡いだ。
「あなたの奥底、一番深い場所にあるラストノートからは、今のあなたからはおよそ漂うはずのない匂いが、微かに抵抗するように燻っているんだ」
「抵抗……?」
「うん。それは……『上質な羊革』と、ほんのりと甘い『膠』の匂いだね」
膠。そして、革。
その二つの単語を聞いた瞬間、女性の力んだ肩が跳ね、その単語を反芻した。
良妻賢母という厚い鎧の下に隠されていた、革と膠の匂い。
彼女が心の奥底に封印していた「本当の自分」とは……?
次回、隠された過去が明らかになる中編へ続きます。
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